ハウルの動く城がファンタジー映画の最高傑作であるわけ


ファンタジーとはなにか?現代のファンタジーの大きな源流はトールキン指輪物語など一世紀ほど過去のイギリスの児童文学に遡ることができるだろう。それ以前はお伽噺や童話の世界になる。


つまり、もともとはファンタジーは子供に聞かせる話として誕生したものである。


お伽噺や童話そしてファンタジーに人々はどんな思いを託してつくってきたのか。


ぼくの母親から聞いた話だが、昔、母親の子供時代、日本が貧しかった頃、狸に化かされたという話は学校 に弁当をもってこなかった子の冗談めいた定番の言い訳のひとつだったそうだ。つまり家が貧乏だから、弁当を持ってこないのではなく、狸に化かされて盗られただけだというわけだ。


人々は現実がこうあってほしいなという夢を物語に託したりする。シンデレラという話は貧しく冴えない少女が、魔法で身なりを整えたら実は美女で王子様に求婚されるというはなしだ。シンデレラと類似の民話、伝説の類は世界中にあるらしいが、別に昔話でなくても、自分もなにか奇跡が起きて条件さえ整えば、実はすごい才能があって他人から認められて幸せになれるんだという筋書きは、現代の日本のマンガやアニメでも王道といってもいい。


一方、そういう王道のストーリーと異なり、童話らしい奇跡は起こったんだか起こってないんだか分からず、現実によくあるような苦しみをただ綴ったような悲しい童話もある。たとえばマッチ売りの少女という有名な話がある。マッチを擦っている間だけ、美味しいごちそうの幻が見えたり、死んだはずの母親が現れるというはなしだ。この話は客観的に考えると、凍え死にかけた少女が死ぬ間際に幻覚をみただけじゃないかとも解釈できて、そうすると実は不思議な話でもなんでもないリアルな小説だ。昔話にもこういう文学的な作品はあるんだなあと思っていたら、マッチ売りの少女は言い伝えられた民話の類ではなく、アンデルセンが19世紀の半ばにつくった大人のための童話らしい。


さて、ハウルの動く城についての話だ。ハウルは僕は映画公開時に一度観て、いろいろ不満があったけど、まあまあ、面白かったなあと思った作品だ。わくわくする冒険は少なかったけど、宮崎駿がひさびさに正統派ファンタジーをつくってくれたことだけで満足しなきゃとか思ったことを覚えている。


つまり、去年、ハウルをDVDで観たのは映画以来の2回目で、だから、とても驚いた。こんないい映画だったのかとびっくりしたのだ。


あちこちのシーンで心が動かされて涙が溢れそうになった。さらに興味深いことに、その多くの箇所で、なぜ、ぼくが今、感動しているのか自分でもよくわからなかった。


これはいったいどういうことなんだろう、と考えてみたのだが、まず、第一のポイントは観るのが2回目だったので余計な期待をしてなかったことだ。最初にハウルを観たときの自分を思い返してみたら、ぼくはずっと最後の戦いが始まるのを待っていた。ハウルが敵と戦争を開始する決意を固めるのをいまかいまかと見守っていたのだ。そしたら、そういうカタルシスをもたらしてくれる戦闘シーンはまったくでないまま映画は終わってしまい、本当にがっかりしたのだ。だが、2回目にハウルをみたときには戦争シーンなんてほとんどないことは最初からわかっていたので、余計な期待はせず、素直に映画を観れたのだと思う。


そういえば去年、映画監督のHさんと酒席でご一緒する機会があって、そのときにHさんがハウルを批判していた話が面白かった。Hさんが文句をつけていたのは一点だけ、ハウルの城についている大砲のことで、なんで撃たないんだ、と怒っていた。登場した武器は最低一回は映画が終わるまでに使うべき、と主張していて、ああ、ぼくも気分的にはまさしくこんなかんじでハウルを観ていたなあ、世の中の多くのひともそうだったんだろうなあと思ったのだ。


宮崎駿は間違いなく、ハウルで戦争なんて描く気はハナからなかったのだろう。じゃあ、彼はなにをハウルで描こうとしたのか。


Hさんの話をきいた酒席にいた別の監督Aさんはハウルのことを、ソフィーがハウルの城に到着するまでが最高に素晴らしかった、と評した。ぼくも同じ意見だ。ハウルは全体的にすごく完成度の高い映画だが、特にハウルの城に到着するまでは完璧としかいいようがない。


ファンタジーとは現実には起こらない奇跡を描く。観客にとって起こって欲しい奇跡や起こると楽しそうだなと思う奇跡を描く。


でも本当は奇跡なんて起こらないなんてことをみんな知っているのだ。奇跡は現実の中ではなく、みんなの心の中に願いとして存在しているのだ。


ハウルの特に序盤で宮崎駿はそのことを残酷なまでに描写する。彼が表現したのは奇跡を起こって欲しいという主人公ソフィーの感情である。奇跡そのものは・・・空中散歩などは本当に名場面ではあるものの実はどうでもよくて、そういう奇跡が起こって欲しいと願う気持ちがどういうときにあらわれるのかを見事に表現している。だから、ぼくは涙がでそうになった。奇跡で救われているはずのソフィーを見て涙が溢れそうになったのだ。


ソフィーがハウルの城にたどり着くまでの物語は、実はソフィーの頭の中で夢見た幻にすぎないという解釈が可能だ。これは実は冒頭で書いたマッチ売りの少女と同じ構造を持っている。ソフィーに起こった奇跡はソフィー以外のまわりのひとには見えていないし関係ない。ソフィーには本当は奇跡なんておこっていなかったのだ。


じゃあ、本当のソフィーの物語はどうだったのか。街角でのハウルとの出会い、これはおそらく自分とは身分違いのかっこいい青年とすれちがってちょっと優しい言葉をかけられた、ただ、それだけの出来事だったのだろう。ちょっとした恋心を抱きながらも付き合えるワケがないと諦めながら、少女は年を重ね、やがて老婆になっていく。たぶん、生活に疲れた彼女にとって、若い日のちょっとしたこのエピソードは一生心の奥にしまっていた大切な思い出だったに違いない。映画では魔法で老婆にされたソフィーは山に向かう。なんのために山にいったのか?途中で馬車にのせてあげた夫婦は、親戚がいるから、とソフィーというソフィーの説明を訝しがる。もちろんその話はウソだということをぼくらは知っている。ソフィーにはこの家にはいられないといって黙って家をでていったのだ、あてなどあるはずがない。ソフィーは山に死にいったのだ。死を決意したソフィーの荷物は台所から持ち出した少しの食べ物だけで、お金は一銭もない。きっと、これは本当の話なのだ。いきなり90歳になる魔法なんてなかった。ただ、ふつうに年を取り老婆になったソフィーが居場所がなくて山に死ににいったという話なのだ。姥捨て山の物語だ。


姥捨て山で死をまつ年老いたソフィーはなにを考えていただろう。自分の人生がひょっとしたら変わったかもしれないかすかな可能性、若い日に街角で出会った青年のことで空想をしていたにちがいない。彼は魔法使いで実は自分のことを愛していて、いま、この寂しい山奥で運命の再会をするのだ。ハウルの動く城とはソフィーが死の寸前に夢想した幻覚の物語である。まさにマッチ売りの少女なのだ。


ハウルの動く城ではアンデルセンが書いた童話と異なって、悲劇的な結末は描かれない。ソフィーは冒険の末、ハウルと結ばれるだけでなく、新しい家族と手に入れ一緒に暮らすことになる。まさに絵に描いたような理想のハッピーエンドだ。


ぼくが本当にすごいと感動したのは最後の最後で唐突にかかしの魔法が解けて、隣の国の王子様にもどったときだ。なんだかんだいってファンタジーとしてすすんでいた映画が、いきなりおとぎ話の世界になったのだ。余計な説明も演出もなにもない。いきなりお姫様のキスでかかしにかけられた魔法がとけて王子様になる。おとぎ話の典型的なラストである。リアルに描かれた登場人物の心情も映画の世界観もぶちこわしにいきなり子供向けのお話のエンディングがくっついたのである。


そう、ハウルの動く城とはおとぎ話だったのだ。宮崎駿は人間の悲しみを描き、その中からこういう現実だったらいいなという願いをすくいあげてファンタジーの物語をつくった。しかし、その手法としては完全に現実とは別の世界をつくるのではなく、登場人物の心情がとてもリアルに描かれた文学のようなファンタジーをつくった。シンデレラではなくマッチ売りの少女をつくった。ただ、それではエンターテイメント作品にはならない。マッチ売りの少女の妄想の話はふくらんで長く続き、シンデレラのような話がうしろにくっついた。そして最後にやっぱりこれはうその話、おとぎ話だったんだよとけっして視聴者に絶望を与えないかっこいい形でつきつけて映画を終わらせたのである。おとぎ話であるとはっきり宣言することでハウルの美しい物語にこめられた世界はこうあってほしいという宮崎駿の願いが純粋な形で伝わったのだ。


これほど美しい物語をぼくは知らない。


ハウルがファンタジーとして異質なのは、登場人物の感情の描写のリアリズムでそこが文学的である所以だ。だいたいファンタジーとは世界の設定だけではなく、登場人物の性格設定までもがステレオタイプで荒唐無稽なものだ。


ここで宮崎駿のリアリズムについてぼくの考えを話したい。よく宮崎駿の特徴として描く絵が空間的に歪んでいるということをプロデューサーの鈴木敏夫は指摘する。遠近法では正しくないんだが注目してほしいものをより大きく描いたり、なにかの背後に隠れて見えないはずの風景をまわりこませて画面に描きこむ。それが実は人間の脳での情報の認識方法にはなじみやすくて気持ちいいのだと説明する。宮崎駿の絵は写真のように遠近法では正しくないが、人間の脳ではよりリアルに感じられるということだ。


だから、宮崎駿の絵は空間が歪んでいると鈴木敏夫はいうのだが、さらに付け加えれば、ぼくの意見では宮崎駿の映画の歪みは空間方向だけでなく時間方向にも及んでいると思う。宮崎駿は絵描きである以上にアニメーターなのだ。映像として観客の脳がどう感じるかというのをシミュレーションして、いらない情報は省き、必要な情報は強調しながら、映画の構成を考えているはずだ。一般にも宮崎駿はシナリオも脚本もない状態で、いきなり絵コンテから物語をつくりはじめるといわれているが、その理由はこのあたりにあると思っている。


宮崎駿の絵が実は歪んでいることに気づかないのと同じように、宮崎駿のつくる物語はストーリーに矛盾や説明不足がたくさんあって歪んでいるのに気づかれにくい構成になっているのだ。そして歪んでいるのに、よりリアルな物語に感じられるのだ。


これはちょうど夢と似ているのではないか。人間が夢の中で見ている映像とはどういうものか、多くの人は白黒の夢をみていて天然色の夢を見ているひとは割合的に少ないといわれる。おそらくは、天然色の夢を見ているひとというのも起きているときに視神経から飛び込んでいる映像ほどの情報量は脳内では再現できていないのではないかと思う。夢を見ている間、きっと人間は現実よりも不完全な映像を見ている。そしてそれが夢の中ではほとんど意識されないのは、もともと人間は起きているときも視覚情報を大幅に削減し抽象化して、脳内で扱っているからだろうに違いない。それでも夢の中では現実以上に恐怖を感じ、うれしかったり、悲しかったり、感情が揺れ動く。そういう夢を見ることがある。


宮崎駿のつくる映画は良質の夢なのだ。それがリアルじゃないアニメ、リアルじゃない物語で、なぜか現実よりもリアルな感情が呼び覚まされる理由だ。


ハウルの動く城、まだまだ書きたいことはたくさんあるが、見せたら長いと文句をいうひとがいるので、ここで筆を置く。


ぼくが、人生で出会った中で最高のファンタジー映画である。

お金持ちになりたい人は知っている雑学21選(モノポリー編)

お金持ちになりたい人が知っておくべき考え方21選という、明らかな工作によって、はてなブックマークで人気になっているブログ記事がある。


はっきりいって中身は役には立ちそうにないと個人的には思ったのだが、似たような人生の知恵みたいな文章に見せかけながら、実はモノポリーの説明をしているだけというようなエントリが書けるんじゃないかとつまらないことを考えて、昨日、試してみた。書いているときは自分では面白かったのだが、2人ぐらいに読んでもらったら、モノポリー自体をよく知らないらしくぽかーんとされた。ということで、最初からタイトルで表記することにする。


以下、冒頭の”人生をゲームに例えてみた”ではなく、”ゲームを人生に例えてみた”というのがポイントだ。


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ぼくがゲーマーだからというわけじゃないが、ゲームを人生で例えてみる。


人生とはお金持ちになるだけじゃなく、勝たなければ意味がないというのは一つの価値観だ。人生は楽しめば勝ちという考え方もあるが、とはいえ勝負としての勝ち負けがあるのは否定しようのない現実だ。

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もー、まったくこういう書き方をすると勝ち負けなんて意味ある
の?なんてコメントしたがる厨が沸いてきそうだが、まあ、ほっ
ぽいておこう。話が進まない。ゲームなら勝ち負けあるのはあた
りまえだ。ただ、人間、それぞれぼくとみなさんが考えているゲ
ームが異なるかもしれないだけのはなしだ。
※※※


残念ながら、ぼくには、人生でお金持ちになるための秘訣や、人生で勝つための秘訣なんて、だれでも応用できる法則を書くほどの能力はない。だから、人生をつづけていくプレイヤーの多くが身につけるだろう雑学をただ思うまま書きつづっていくことにする。


・ 人生のお金儲けの基本は不動産投資である。どんな方法でお金を稼いでも本当の金持ちになりたいなら結局は不動産投資にいきつく。


・ 人生においてビジネスの取引をする上での友人なんていつ裏切るか分からない。ただ、人生を通じて友情が続くという偶然は本当によく起こる。


・ 人生はおなじところをループする。未来に起こりうることは過去に起こりうることと同じだ。同じに見えないとすれば、起こりうることが違うのではなく、実際に起こったことが異なるからだ。サイコロの目が毎回変わるだけということである。そして人間はだれもが同じところをくりかえしているが、人によってループする早さともらえるお金の回数が変わってくるのだ。


・ 色即是空という言葉とまったく関係はないのだが、あるひとかたまりの場所が、同じような色に見えたとしても人生のスタート地点から一番遠いところが一番価値が高いものである。


・ 男性の場合は外見、見た目をどう選ぼうが、お金儲けにはなんの関係もない。(本当のことをいえば女性の場合もそうだ)もちろん美人コンテストみたいなものによって人生の一時期にメリットを受ける場合もあるが、そんなの人生全体から見たらごく一部だ。そしてその場合ですら本質的にはプレイヤーの外見はまったく関係ない。


・ ちゃんとルールを守ってビジネスをしているつもりでも刑務所にぶちこまれることはある。ほりえもんじゃないが、理不尽に思える理由で刑務所に入るということは本当にあるから、自分には関係ないと思うべきではない。


・ チャンスで成功するためには2段階必要だ。チャンスが訪れることと、いいチャンスをつかむことであり、どっちも運だ。訪れたチャンスのカードを開くことだけなら、だれにでもできるが、どういうチャンスなのかは見るまで分からない。(共同募金も同様)


・ 時は公平に流れる。ただし、ひとによって進める距離が違う。愚か者はたくさんの距離を進めた場合に、自分の努力の結果だったりクルマだとかウマだとか特別な乗り物のせいと主張することがあるが、本当は、まったく偶然のサイコロの目次第なのだ。


・ 分散投資なんてできるのは大金持ちに限られている。人生成り上がるためには同じエリアに集中投資することが必要だ。


・ 不動産で儲けるひとはほっておいて騰がるのを根拠なく待っている馬鹿じゃなくて自分で家やホテルを建てて再開発するようなひとだ。


・ 電力会社というと東電を思い浮かべるが、意外に儲からない。水道会社もそうだが、こういう公共的なインフラビジネスは手堅いように見えても大きくは儲けられないルールになっているから羨ましがる必要はない。


・ 刑務所に入ることを恐れるひとは多いだろうが、人生の終盤においては安全な牢屋にとどまることを選ぶひとも多い。


・ 一発逆転を狙う定番といえばボードウォーク。


・ 六本木ヒルズ版とかスターウォーズ版とかいろいろあるが、カードの名前とかが違うだけで中身は変わらない。


・ 職場の上司や大事な取引先から、土地カードの色がそろうからと取引を持ちかけられたら、現実の人間関係にひびがはいりそうで断りにくい。


・ ゾロ目を続けて出したら刑務所に入らなければいけないというのが、意味が分からない。


・ 金さえ払えば刑務所からでれるというルールは教育上いかがなものか?


・ 土地を銀行に抵当にいれると土地のレンタル料がもらえないのは一般的な商慣習から外れている。


・ コンピュータゲームの場合に、たいてい競売のインターフェースが面倒くさすぎる。


・ モノポリーをやるのは初めてという場合でも女の子だったら勝率が高い。


・ なぜか、自ら進んで銀行をやりたがるやつがいる。


以上

スーパーマリオ3Dランドが素晴らしいわけ

もう発売されて2ヶ月になるが任天堂3DSソフトの「スーパーマリオ3Dランド」が素晴らしい。


巷ではソーシャルゲームスマートフォンが流行っている昨今ですが、そんな時期に任天堂が古き良きテレビゲームのひとつの究極的な進化形であるといっていいゲームを出したわけだ。


およそ理想のテレビゲームとはなんだろう?


ひとつの理想は間違いなく万人が楽しめるゲームであるということだ。年齢趣味趣向を問わないだけでなく、ゲーマーとしての腕前の巧拙にかかわらずにだれでも楽しいゲームというのが究極の目標であるはずだ。


これはもちろんゲーム会社として特に任天堂のようなトップ企業にとっては最大限の顧客をターゲットにするためにはとても大切なテーマになるのは当然だが、ゲーマーにとっても重要なテーマになる。なぜならゲームなんてひとりでやっても楽しくないからだ。まわりの友達や家族といっしょに遊べてこそ、本当に楽しいゲームとなるからだ。


スーパーマリオ3Dランドの出来の良さで、あちこちのレビュー記事で第一に指摘されているのは、3DS上ではじめて3D立体視をうまくゲームに取り込んだ本格的なゲームであるということだ。


もちろんそれも素晴らしいのだが、それ以上にぼくが感動したのは完璧なまでのゲームバランスの設計の良さだ。


あるタイプのゲーマーを想定して、彼ら用にゲームバランスを最適化されたゲームをつくることは、もちろんそれだけでもすごいことなのだが、まあ、ありえる。


しかしながら、いろいろな熟練度のゲーマーのだれが遊んでも最高のゲームバランスというゲームをつくることは非常に難しい。


いまの多くのゲームはゲームバランスを難易度の選択という形で調整する手法をとっている。イージーとかノーマルとかハードとかだ。でも、これだと難易度ごとに実際には別々のゲームを遊ばせているのに等しいのだ。そして多くのゲーマーは自分に最適な難易度がゲームを実際にやってみないと分からないという根本的な問題がある。


スーパーマリオ3Dランドは難易度なしに、つまりどんな熟練度のユーザに対しても同じゲームを遊ばせながら、同時に優れたゲームバランスを提供をしているというのが本当に素晴らしい。


これがどのようなアーキテクチャーで実現されているか、ちょっと整理してみた。基本として重要なのは次の4つだ。4つというのもちょうどいいバランスだ。プレゼンテーションしやすくてありがたい。


(1) ゲームの目標までのルートが基本的には一本道であるにもかかわらず、寄り道や別ルートが可能になっている。
(2) 熟練者だからといってゲームが有利にならない。
(3) 何度も同じゲームをさせる仕組みが組み込まれている。
(4) ゲームの進行に何度も失敗するとだんだん強力な補助アイテムが出現する。


(1)については自明だろう。スーパーマリオ3Dランドは、ステージをクリアするためにはスタート地点から旗のたっているゴール地点までいけばいいだけという非常にシンプルなルールだ。このゴールまでいくためにはまっすぐいってもいいし、途中で寄り道をしてもいい。ドラム缶にもぐったり空に昇って雲の上を進んだりする別ルートをとることもできる。このシンプルかつ自由度の高い仕組みのため、同じステージでも何回も楽しく遊びつづけることができるようになっている。しかも、これは(2)に関係する話だが、実はもっとも簡単なステージをクリアする方法というのはコインをとったり余計なことをせずにまっすぐいくことなのだ。寄り道をしたり、コインを集めたりするのはあくまでプレイヤーがそのほうが楽しいから勝手にやっているだけで、ゲームをクリアすることにはあまり関係しないというのが大きな特徴だ。


(2)についてもっと説明すると、スーパーマリオ3Dランドのゲームバランスがうまいなあと感心するのは、ゲームの熟練者がアイテムとかをとりにいって成功したとしても、あまりゲームを有利に進めることができないという点だ。代表的なのはスーパースターだ。これを取ると敵にぶつかっても死ぬのは逆に敵のほうというとても強力な無敵アイテムだが、時間制限があるため、とったプレイヤーは大抵の場合は慌てる。そしてジャンプに失敗して穴に落ちて死ぬというのはよくみかける光景だ。スーパーマリオ3Dは熟練者がより高度なプレイに挑戦すると、死ぬ確率がむしろ高くなるというバランスになっているのだ。これは多くのテレビゲームの場合は逆だ。攻略サイトにのっているような知識を駆使して、秘密のアイテムを取らないと、難易度が高すぎてゲームを進行させるのがとても難しかったりする。攻略サイトの存在も知らないような初心者プレイヤーに一番難しい難易度のゲームをさせるようなシステムになっているのだ。


遊びとはもともと自己満足なものである。ゲームの難易度はプレイヤーが自分で勝手にハードルをあげて遊べるような設計になっているほうがいい。難易度をむやみにあげて、それ以上ゲームを進めないようにすると、どういうことになるか。そこから先を一緒に楽しめる友達の数が減る。そうなるとそれ以上プレイしても友達の中でおれすげえと自慢することすらできなくなる。そしてだいたい難易度は高い部分はクリアする方法は一種類しかなかったりすることが多いから、難易度のわりにクリアする喜びどころかやらされている感が増えていくのだ。


思い出すのはダンスダンスレボリューションがゲームセンターで流行ったときだ。ゲームクリアとはまったく関係ないが、いかに格好良く踊るかをみんなで競った。ゲームの自由度の高さとはそういう方向に使われるべきなのだ。やっぱりゲームはごっこ遊びであるべきだ。


(3)は今回一番感動した。ステージを最短コースでクリアすると手に入らないが、寄り道すると手に入るスターというアイテムを集めるというシステムがあって、実はこのスターを一定数、集めないと遊べないステージがあるのだ。つまりその隠されたステージを遊びたかったらスターを集めるために、すでにクリアしたステージを何度もやりなおす必要がある。しかも、まあ、そんなのも必要ないおれは楽ちんプレイだけでゲームクリアを目指すんだとぬるいことを考えていても(←僕)、ワールド6までいくと隠されたステージどころか、それ以上次のワールドにいくためにスターが必要になる。だから、結局、ゲームを最後まで遊びたかったら、すでにクリアしたステージを何度もやりなおさないとどうしようもないというシステムが最初から組み込まれているのだ。既存のゲームの多くは難易度下げたら、どんどんプレイヤーを先に進めてほったらかしだ。本当のゲームの面白さを味あわせずに、ただ先に進みたいというプレイヤーの欲望だけをかなえようとする。でも、本当に面白いゲームをつくったという自信があるなら、ユーザをなんとかだまくらかして教育的指導をおこなってでも、その面白さを味わえるだけのところへユーザを誘導しなければいけないと思う。スーパーマリオ3Dランドはまさにそのことを実践しているのだ。


(4)については、それでもステージをクリアできないプレイヤーにも最低限のゲームの中身は見せていこうという姿勢だ。5回失敗すると、自動的に超強力な補助アイテムが出現し、無敵状態になって敵の攻撃でしななくなる。それでも失敗すると、ゴールのすぐとなりまでワープできるアイテムまで出現する。最後についてはやりすぎじゃないかと思ったりもするものの、ゲームの面白さを伝える最大限の努力はしながら、それでも救えない技術レベルのプレイヤーまでもゲームに参加できるように努力したことは素晴らしいと思う。


驚くべきことは読んでわかるように、これらの要素、とくに(1)と(2)については、初代スーパーマリオブラザーズより一貫した設計思想であるということだ。インベーダゲーム以降、ハイスコアを競い合うゲームばかりだったテレビゲームの世界ではじめて点数でなく、ゲームの中の世界を楽しむということに主眼をおいた画期的なゲームが初代スーパーマリオブラザーズだったのである。


スーパーマリオ3Dランドは初代スーパーマリオブラザーズから目指している万人のためのゲームという理想を、もっとも高いレベルのゲームバランスで実現した世紀の傑作だ。あまりに素晴らしくて、まだ、ゲームをクリアしてない状態で友達に貸したら返してくれなかったので、まだ、ゲームは途中なのだが、あのままいけば確実に飽きっぽい下手くそな僕でも最後までクリアできた数少ないテレビゲームになるところだった。


そしてやっと先週返してもらって、こうしてブログを書いている。


というわけでいいから買え。そしてやれ。

新年ということで「悟り」について考えてみた

正月三が日も終わった。


年末年始に書きかけのブログを完成させようと何度かこころみたが、数えてみたら22本も途中で投げ出しているエントリがあった。どれもこれもそのとき書いていたら、面白かっただろうなと手前味噌ながらも思うのだが、なにしろ、今の自分と過去の自分は、ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、と鴨長明も指摘するとおりに別人だ。


やっぱ、思い立ったときにブログは完成させないとだめだねえ。なまものだねえ。


というわけで、今朝、ベッドの中で考えていたことを書き留めることにする。


悟りとはいったいなんだろうかということだ。


信頼性の低いwikipediaの記述によると釈迦が悟りを開いたのは35歳だという。


人間なんて大差ないというのがぼくの信念である。当時の釈迦よりも年長組の僕は、すでに悟りを開いているはずだ。いったい、ぼくがこれまでにした経験のどれが悟りに相当するのだろう?


ひとつの予想としては悟りとは理屈ではないだろうということだ。完全に論理的な理屈であれば、書物となって残っているはずだ。もちろん論理的な部分はあるのだろうが、メインとなるのはなにかの心の状態であろうと僕は思う。


どういう心の状態なのか、可能性としては次の3つが有力ではないか。結論からいうと、おそらくは3つとも関係しているのではないかと思っている。


・ 無常観
・ 全能感
・ 刹那主義


インテリというのは大体いつの時代でも肝心なときには役に立たないくせに、普段は不毛なことをずっと考えつづけるものだ。しかし、インテリではなくても自我に目覚めた人間は、生きる意味とはなにか、みたいな生きるためにはどうでもいいことに思い悩む時期が人生に一度はある。


まあ、でも、しばらく麻疹のような時期がすぎるとそんなくだらないことを考えるのはやめて、日常の生活に埋没していくのが大人というものだ。しかし、症状が重い人間は麻疹の時期が過ぎても完全には治らず、ちょうど質量が重すぎる太陽が燃え尽きるときに超新星爆発を起こしてブラックホールが残るように、なにか重いもやもやした感情が残る。


それが無常観だ。まあ、冷静に考えて、人の人生になにか隠された重大な意味があるわけもなく、神もいなければ仏もいない。死んだら終わりだということにいつか気づくのはあたりまえだ。真理への問いの行き着く先に無常観はある。


では、これが悟りだろうか。だとするとハードルが少し低すぎる。無常観なんて、だいたい思春期というか第2反抗期に経験するものだ。


おそらく無常観は悟りの条件のひとつではあるがすべてではない。


だいたい、おれは悟りを開いたとまわりに吹聴して回る神経と無常観とはちょっと相反するものがある。なんでそこまでポジティブになれるのだろうか。


そこで登場するのが全能感だ。おれは全てを理解した。いま、おれはまわりの誰よりも賢い。そう思ってしまう瞬間は人間誰しも経験あるはずだ。いまならなんでもできそうな気がする。悟りを開いたと偉そうなことを公言する勇気をもつにはおそらくなんらかの全能感を持っている状態でないと説明が難しいと思う。


つまり悟りとは無常観と全能感を併せ持っている心の状態であるというのがぼくの推測だ。


ところが前述のように無常観と全能感はわりと相反する感情に見える。仏教ではだいたい全ての煩悩を捨てよといっているように思えるが、自分は悟ったと思い込むことこそまさに煩悩ではないのか。


このあたりの溝を埋めるのが刹那主義ではないかとぼくは考える。


刹那主義とは無常観のあとに必然的にでてくる考え方で、生きる意味なんて別にないのなら、いま、この瞬間を楽しく生きればいいんじゃないかという考え方だ。しばしば刹那主義は快楽至上主義と同義になる。


ますます悟りなんていう高級そうな考え方にそぐわない方向へいっているように思うが、そうではない。人間本来の自然な感情には忠実になれというのは十分に立派な思想だし、文学やドラマでも頻繁に用いられるテーマだ。刹那主義が堕落した快楽主義に陥らずに、もうちょっと高級感を醸し出すためのポイントとはなんだろうか。


それは刹那や快楽を感じる主体をどこに置くのかという問題に帰着するのだろう。別のいいかたをすると自己認識の範囲を自分以外にも広げることができるかどうかということだ。刹那を感じる自分、快楽を感じる自分、その自分の範囲を自分以外にどこまで拡大できるのかと言うことだ。


一昨日、ニュートンの最新号を読んでいたのだが、そこでは相変わらず宇宙の大きさとかを論じていた。最新の宇宙の歴史は137億年だそうだ。だから、光は137億光年先のものまでが届いている。では、137億光年はての向こうにはなにがあるのだろうか?なにもないのか、それとも宇宙が続いているのか?いまの科学では明確な答えはないが、おそらくは無限に広がっているか、137億光年よりは十分におおきいであろうと記事は結論づけていた。


たとえばこの宇宙の大きさまで自分を拡大することは可能だろうか?ぼくはちょっと宇宙に感情移入が可能かどうか想像してみたが、無理だった。ビッグバンで始まり、いずれ、ビッグクランチで終わるのか、それとも熱力学的な死を迎えるのか、はたまた再度のビッグバンが起こるのか、まったく想像力が及ばないが、とりあえずぼく自身は宇宙の運命にはまったく関係ないということだけは確信できる。しょうがないから太陽系まで大幅に想像を狭めてみる。やがて赤色巨星化した太陽に飲み込まれる地球の運命に思いをはせて、なんとか食い止める方法はないかと考えたりしたものの、やはりぼく自身の運命との無関係さはいかんともしがたい。


結局、実感をもって、自身自身だと思い込める範囲というのは、通常は家族ぐらいまでではないかと思う。それを民族だったり国民だったり人間だったり、あるいは自然も含めてだったり、どこまで拡大していけるか。その拡大された自己認識の中でなおかつ無常観にもとづいて刹那主義を貫いた状態。これが悟りなんじゃないかと思う。


刹那主義とはすなわち己の欲望も含めた全面的な自己肯定である。そこでの自己が範囲を広げた自己であるなら、すなわちそこでの現実を受け入れることができる。


悟りとはそういったものじゃないかと、今朝、ずっとベッドの中で考えていたのだ。なぜ、ずっと考えていたのか?


寒くてベッドから出たくなかったからに決まっている。

ジョブズとぼくらは勝ったのか?

アップル社のスティーブといえば、いまだとジョブズだが、30年以上前、アップル社の最初のヒット作品であるAPPLE IIの時代には、もうひとりいた。スティーブ・ウォズニアックだ。APPLE IIを設計した天才エンジニアであるウォズニアックはウォズの魔法使いとか呼ばれて、パソコンマニアの中では、もっとも尊敬される人物のひとりだった。だから、当時のアップルファンにはスティーブといえば、ジョブズが好きか、ウォズニアックが好きかという定番の話題があったのだ。


もちろん、ウォズニアック派がほとんどだった。ジョブズは天才エンジニアのウォズニアックをうまくつかまえて大儲けをしたビジネスのひとだと思われていたから人気がなかった。


第一次パソコンブームの当時、日本でもそういう天才プログラマをうまくつかって大ヒットソフトをつくって大儲けするビジネスマンや大人たちといった構図はあちこちで見られたから、まあ、ジョブズはそっち側の人間と思われていた。金に汚いやり手のビジネスマンという評判は太平洋を越えた日本にも伝わってきていたのだ。


だから、彼がMacintoshをつくった最初、画期的だといわれながらもまったく売れなかった時代に、もういちどウォズニアックが設計したAPPLE IIの後継機種をつくってくれれば、アップル社は復活するのにとか思っていたアップルファンは多かった。ウォズニアックが本当のクリエイターなのに、ジョブズは自分に才能があると勘違いして趣味みたいなパソコンをつくったから失敗したのだと思っていた。


だいたい、あのMacとかいうのはなんなんだ。いまどき白黒モニタだし、メモリが少ない。というか、別にそれほどメモリも当時の感覚では少ないってほどではなかったのだが、無駄に重いUIのOSのせちゃったから、全然、メモリが足らなくなってしまった失敗作だ、というのが、当時のパソコンファンの一般的な認識だった。まだMacファンなんて本当に少数派だったのだ。アップルファンですら、APPLE IIの真の後継機を期待していたのだ。


だから、ジョブズジョン・スカリーによって追放された事件もざまあみろと思った人が少なくなかったはずだ。みんな、もうこれでジョブズは終わったと思っていたし、いったん、失敗してから復活したパソコン界の伝説のひとなんて見たことなかった。


ジョブズが日本でもカリスマを獲得していくのは皮肉にも、この追放劇のあとのマイクロソフトウインドウズの大成功である。スティージョブズといえばWindowsMacのパクリ発言をあちこちでやっているイメージがあるが、その多くはアップル社のCEOとしてではなく、アップル社を追放されたもはや無関係の第三者の時代のものだ。ある意味、昔に捨てられた女のことを忘れられずにいつまでも自分の女みたいにいいつづける男みたいで見苦しい光景だ。しかし、Macintoshの先進性と素晴らしさがWindowsの大ブームによって商業的にも証明されたことはMacの評判をあげると同時に、Windowsにシェアでは勝てないMacにファンはアップル社へのいらだちとビルゲイツへの憎悪を生んだ。そしてMacをもともとつくったジョブズ復帰の待望論がはじまったのだ。ぼくはジョブズがアップル社へ復帰できた要因として、ビルゲイツWindowsの悪口をいいまくったことはとても大きかったと思う。


さて、ジョブズMacintoshを超えるコンピュータをつくろうとNext Computerとピクサーをつくったのだが、結局、どっちも失敗したことはいまでは忘れられている。なのになぜアップル社に復帰できたのかとかというと、ピクサーはコンピュータ会社としては失敗したのだが、アニメ会社として大成功したことで、ジョブズの経営者としての株があがったからだ。ピクサーの立ち上げスタッフの中にコンピュータをつくることに関心のない人間がひとりだけいた。ジョブズは彼を気に入り、CGのアニメをコンピュータの宣伝用につくることを認めた。それが後にトイストーリーを作ったジョン・ラセターだという。ピクサーはコンピュータメーカーではなく、CGアニメの制作会社として大成功して上場をはたす。このピクサーがあって、ジョブズはビジネスの世界の表舞台にもどれたのだ。だからトイストーリーがなければジョブズはアップルに戻ることはなかっただろうし、そうするとiPodiPhoneも世の中に存在しなかったことになる。


さて、ジョブズ復帰以前のコンピュータファンの間で議論されていたテーマがあった。なぜ、MacWindowsにやぶれたかということだ。それはWindowsのオープン戦略とMacのクローズ戦略の差であるというのが一般的な理解だった。ビルゲイツ自身がMac OSが外部にライセンスされていたらWindowsはなかったとかいっていたとかいう話もよく喧伝されていた。だから、Windowsに負けていることが悔しいアップルファンはアップル社以外でもMacがつくられるようになったら、Windowsに勝てるのにとか言っていた人間が多かった。そういう世間の声に押されてか、Power Computingと他数社からMac互換機が実験的に発売された。あと、いわれていたのはアップル社の流通に対する傲慢な態度である。もっと販売店を大事にして流通ルートを広げないとMacはPCに勝てないといわれていた。そんな時期にジョブズはアップル社にもどってきたのである。


そしてジョブズがアップル社にもどって最初にやったのが、そういうアップル社の改革路線をすべてストップして逆回転させることだったのだ。互換機ビジネスは中止。Macはアップル社のみで発売。そして流通網は選別して大幅に縮小するばかりか、直営のアップルストアとかを各地につくって、ネットで直販を開始したのだ。みんなが指摘するアップルの問題点と改革について、まったく逆のことをやって成功させたのだ。ぼくがジョブズをやっと尊敬しはじめたのはこのあたりからだ。


さて、ジョブズの復帰後もアップルファンの誇りはなかなか回復しなかった。みんなの憎悪の対象のマイクロソフトから出資を受けて救済してもらったことにも当時のアップルファンは非常なショックと敗北感を感じた。iMacは素敵なデザインだったが、それだけだった。もはやコンピュータの未来をつくっていたアップルの力はないということをみんな再確認した。アップル社の倒産の危機はなくなったものの、Windowsとのシェアの差は一向に縮まらなかった。むしろ、Macがなくなったら、マイクロソフト独占禁止法が適用されて困るので、アップル社を潰さないのだとかいう話もまことしとやかに流されて、うれしいんだか、情けないんだか、複雑な気持ちを抱かされた。


iPodの登場。ひさびさの大型新製品だった。でも、もうアップルはパソコンの世界では勝てないんだな、隙間ビジネスを狙っていくしかないんだなという寂しさをアップルファンは感じていた。


それが気がついたらiPodが売れに売れて、iPhoneがでて、なんかよくわからないうちにアップル社はIT企業としてマイクロソフト社を抜いて世界一の時価総額の企業になっていたのだ。じゃあ、アップルはついにマイクロソフトとの戦いに勝ったのかというと、それもなんか違う。いまのアップルのライバルはグーグルとかアマゾンというらしい。アップルの永遠のライバルであるマイクロソフトビルゲイツがとっくに引退していて、グーグルとの覇権争いにも敗れていた。


そして今日、スティーブ・ジョブズが死んだというニュースが流れた。APPLE IIが発売されたのはぼくが小学生のころだ。それから今日までずっとITの世界に生きてきてジョブズはずっと中心人物のひとりだった。


彼の生涯をふりかえるとまあ世間の評判なんてあてにならないということがよくわかる。彼は嫌われ者だったし、クリエイターとして能力あるとも思われてなかった。ビジネスマンとしてもしょせん運がいいだけの青二才とみなされていたのだ。


ジョブズは偉大だった事実と、ジョブズが世間から偉大だと思われている事実は、たまたま幸運にも重なり合っただけの偶然の産物だ。


MacもNextも素晴らしい製品だと一部のひとに思われていたが、本当にすごいと世間が認めたのはMacの真似をしたWindowsが大成功したからだし、ジョブズがやっぱりすごいと再評価されたのはCGアニメをつくる会社を成功させたからだ。そしてアップルファンの心をつかんだのはビルゲイツWindowsへの悪口だった。最終的には時価総額マイクロソフトもグーグルも抜いて、やっとジョブズはだれもが認める伝説となったのだ。そしてそれは真に素晴らしいコンピュータであるMacの成功が原因なのではなく、音楽プレイヤーと携帯電話をつくったことだった。


いったい、アップルの戦いとはなんだったのだろう。アップル信者は本当に勝ったのだろうか。ぼくらはついにビルゲイツ率いる悪の帝国を打ち破ったと思っていいのだろうか。


Windowsが勝利をおさめたとき、22世紀の未来にこの時代をふりかえったら、残っている名前はビルゲイツだけだろうなと思った。スティージョブズは知る人ぞ知る名前でしか残らないだろうと思った。いまとなっては現実はたぶん逆になるだろう。


しかし、ジョブズは死にビルゲイツはまだ生きている。ぼくらもまだ生きていて、きっといままで伝説の世界に住んでいて神話の時代に立ち会っていたんだなと思うのだ。

ネット時代のコンテンツの文法

ネット時代にコンテンツ業界がどう対応するかは、映画、アニメ、ゲーム、音楽、書籍、マンガなど、いずれのコンテンツの世界であっても課題になっている。


課題というのはおもにどうやってネット時代に収益をあげるかをみんな悩んでいるわけだが、そもそもネット時代にはコンテンツのフォーマットそのものも見直す必要があるのではないか、こんなあたりまえのことをあたりまえにいってくれたのが大塚英志(敬称略)だ。


技術者であってもネットサービスの開発に携わるのであればマーケティング的な能力は問われるから、人文書を読むべきだと最近主張している僕だが、とりわけ大塚英志はおすすめの批評家だ。


批評家の書く本がビジネスに役に立つとして、その効用はふたつある。ひとつは世の中に起きている現象をどうやって理解すればいいかを整理できること。もうひとつは世の中で起きている現象をどうやってコントロールすればいいかのヒントをくれることである。多くの批評家はおもに前者であり、起きた出来事を整理して教えてくれるのが得意だ。しかし大塚英志の場合はたんなる批評にとどまらずにじゃあこれからどうやっていけばいいかの示唆が実用的なのでとても素晴らしい。これは彼が批評だけではなく、マンガの原作者などクリエイターとしての顔もあることと無縁ではないだろう。大塚英志はコンテンツとはそもそもなにかという幾分哲学的な問いに対してクリエイターの視点から解を教えてくれる希有な批評家だとぼくは思っている。あるコンテンツを批評するとして大塚英志の場合は工学的に解説をしてくれる。読書感想文的な要素がまったくないのが好ましい。


そういう大塚英志のたぶん最新の仕事だろう「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いていただろう」の序章の文章がとにかく素晴らしい。この本ははっきりいってタイトルで損をしている。このタイトルを見て読みたいと思う人間はかなり少ないのではないかと思う。大塚英志本の信者であるぼくですら、この本はスルーしようかと思って2日前まで読んでなかったぐらいだ。しかし、いちど読んでしまえば、このタイトルも大塚英志がいいたいことを見事にひとことでいいあらわした素晴らしいものに見えてくるから不思議だ。


どういうことか?
この本は電子書籍時代にマンガはどのような表現方法の進化がありえるか、また、進化しなければならないかを、そもそも大昔に”マンガというフォーマット”をつくった先人たちの過去の試行錯誤を紹介しながら解説しているのだ。そしてタイトルの手塚治虫はマンガというフォーマットをつくった過去の挑戦者たちの象徴なのである。


大塚英志がいうには、手塚治虫もデビュー当時は、お前の描いているやつはマンガじゃない、とか悪口をいわれたし、手塚自身でもいままでのマンガじゃないものを描いているんだと宣言しながら、新しいマンガの文法をつくっていった。なのにその後継者のコミック業界のひとたちが、電子書籍時代がやってきたというのに、新しいマンガの表現方法を開拓しようなんてせずに従来のマンガを守ることばかり考えている。それはおかしいんじゃないの?手塚治虫だったら、電子書籍にあった新しいマンガの文法を編み出そうと努力したんじゃないのと、そう「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いていただろう」というタイトルで大塚英志は問いかけているのだ。


そのあたりの問題提起を序章で書いているのだが、その大塚英志の文章がとにかく面白い。主旨は上記のようなことなのだが、その説明の合間合間に、自分はアナログ人間だという不要なアピールがはいるのだ。自分の原稿は手書きだとか、ネットは見ないだとか、携帯電話やメールだって嫌いだとかいう話にはじまって、あげくのはてには今後は電子書籍とか流行るんだろうけど、ぼくは紙とともに滅んでいく旧世代の人間だし、一生かかっても読み切れない自宅の大量の書物に埋もれて暮らすのが好きなんだとかいいだして、電子コミックの時代の新しいマンガの表現方法というこの本のテーマはどっかへいってしまう。最終的に、ぼくはいいけど、きみたち若い人間まで電子書籍に後ろ向きなのはおかしいとか言いがかりをつけはじめて、やっと、この本のテーマに戻ってくるのだ。


まったくもって大塚英志は素晴らしい。別にアナログ人間だろうが電子コミックについて語って構わないと思うのだが、どうしても自分の生き方に論理的な一貫性を求める大塚英志の生真面目さと、自分の主張をそのまま書けばいいだけなのに、定期的になにかへの嫌みだか呪詛だかをひとくさり混ぜないと文章をすすめることができないというのがとても人間的で好ましい。むしろ本当に書きたいのはその嫌みのほうじゃないか、主題は嫌みを読んでもらうためにしょうがなくつけた演出じゃないかと想像してしまう。ちなみにぼくのブログはだいたいそのパターンで、本当に書きたいのはそのときの記事エントリの本筋とはほとんど関係ないしょうもないことで、それを無理矢理読ませるために本筋をつけている。だから大塚英志の文章にはとても共感を覚えてしまうのだ。


話がずれてしまった。(こういうときは、つまり、ぼくの書きたいことは終わったということだ)


ということで本題という名のおまけに戻る。なにか一見ためになりそうなことでも書いてみよう。


大塚英志がいうまでもなく、コンテンツのフォーマットは時代の進化とともに移り変わっていき、新しいコンテンツフォーマットには、新しいコンテンツフォーマットにふさわしいコンテンツの文法みたいなものが存在するものだ。ところがコンテンツ側の人間はだいたい保守的であたらしいフォーマット上でも新しいコンテンツの文法をつくりだすチャレンジは嫌がるのが常だ。コンテンツのデジタル化の際にデジタルらしい特徴をコンテンツに盛り込みたがるのはだいたいIT側の人間で、コンテンツ側はできるだけアナログの忠実な再現を望んできたのがこれまでの歴史だ。ところが、本来はデジタル化やネット化によって、コンテンツの表現できる範囲は広がっているはずなので、それでは潜在的なコンテンツの可能性を殺していることになる。


このことを例えると、そうだ、少し抽象的な説明をしてみるか。ちょっと前に宇野常寛の「リトルピープルの時代」の感想の記事をブログに書いたところ、だれからか、ぼくが文系の高度に抽象的な議論に慣れていないという批判コメントをいただいた。抽象的な議論というのは、大概、自分自身にも理解できているとは思えない寝言をいっているか、言葉が指し示す内容が一意に定まらないどうとでも解釈可能なポエムもどきを披露しているものだと信じていた僕には新鮮な批判だった。なるほど抽象的な議論が高級だと思っている人間が世の中にはいるらしい。ということで、今回のエントリでは、ちょっと文系ぽく高度に抽象的な議論に挑戦してみることにする。


あるひとつのコンテンツというものがN次元空間上の点集合で構成されていると考えると、コンテンツのマルチメディア展開とは、それぞれ決まった次元数をもついろいろなメディア空間へ、コンテンツの写像をつくることであるとみなしてもいいだろう。


なんか、書いててちょっと面白く思えてきたw


コンテンツの次元とはなんだろうか。たとえば文章とか言葉というものは一次元のコンテンツだ。絵画や書籍は二次元のコンテンツといっていいだろう。


三次元のコンテンツとはどんなのがあるだろうか。彫刻やフィギアなんかがそうだろう。しかし、時間も次元のひとつとして考えると二次元のコンテンツが時間軸方向に連続したものも三次元のコンテンツとも考えられる。そうすると映画やアニメは三次元だ。また、同様に考えると三次元の表現が連続する演劇なんかは四次元のコンテンツになる。また、映像についてもデバイス上は二次元+時間であっても実際には3Dでモデリングした世界を二次元に投影しているようなものは三次元+時間の四次元であると考えてもいいかもしれない。


現実の世界では時間は一方向に流れないので空間の次元のひとつとして等価に考えるのはやや抵抗があるが、コンテンツの場合は早送り巻き戻しなど、時間軸を自由に行き来することが可能なので、時間をひとつの次元として扱かうことは現実以上に正当性がある。


さて、時間軸のつぎに、コンピュータ上でデジタル化されたコンテンツというものもなにか次元数は増えるのだろうかということを考えてみる。


コンピュータ上でコンテンツをつくるときに従来のコンテンツと根本的に違う特徴はなにがあるだろうか?それはコンテンツの双方向性だ。ユーザの入力に応じてインタラクティブに反応するコンテンツをつくることができるのが、コンピュータをつかったコンテンツの最大の特徴だ。これは相互に移動可能な複数の時間軸がある世界をイメージすればいいだろう。条件分岐するインタラクティブムービーなどがもっとも単純な例だが、もっと複雑に別の時間軸の任意の時刻へジャンプしてもいいしループしてもいい。複数の時間軸が平面上にずらっとならんでいるのが双方向性をもったコンテンツの正体である。コンテンツを双方向にするということは、さらにそれによって一次元増えると考えていいだろう。


同様にネットのコンテンツというのも次元は増えるのか?増えるとしたらどれだけ増えるのかを考えてみよう。ネットのコンテンツというのはコンテンツを利用するひとが複数いるということである。コンテンツの自由度だけみるとコンテンツの次元数*利用人数=ネットコンテンツの次元数になりそうで、いやになるが、実際には複数人だろうが、配布するコンテンツは同じものだ。各ユーザの状態が異なっているだけの話だ。ネットコンテンツとは基本的には同一のコンテンツを複数のひとが異なる状態で利用していて相互作用しあっているものと定義すればいいだろう。コンテンツはネットワーク化されることによってさらに一次元増える。


つまりネットで現実的に可能となるコンテンツの最大の次元数は、3D+時間+双方向性+ネットワーク化=6である。ネットは六次元のメディア空間なのだ。


さて、そのなかでコンテンツをマルチメディア展開するということはどういうことだろうか?単純な例として書籍の場合で考えてみよう。文章というのは文字列としては一次元のデータだが、紙という二次元のメディアに写像されると、フォントを経由して二次元の画像データに変化される。だが、まあ、本質的な情報としては一次元の文字列のままだ。だが、これにレイアウトなんかがはいってくると二次元部分の情報が付加されてくる。図表や挿絵が追加されるとだんだん二次元の情報っぽくなってくる。コミックなんかになるともはや二次元の絵に一次元の文字列が従属して貼付けられいるだけだから、完全に二次元のデータになってしまう。また、高価そうに見せるために表紙を立派にしたり革製にしたりして背表紙なんかつけたりするとこんどは三次元的な置物としての価値が生まれてきたりする。これは過去に低次元のコンテンツが高次元のメディアに写像として実体化する時になにが起こるかを示唆してくれるよいサンプルだ。


ひとついえるのはメディアが何次元の空間だろうが、全部の次元を使い切らなくてもコンテンツは成立するという事実だ。挿絵や表紙は販促になるかもしれないがあくまでコンテンツにとっては付加的なものでしかなく、書籍にとっては文章という一次元データがあくまでコンテンツの本質的な価値である。ついでにいうと、ネット版NY Timesが記事についている写真が動画になるとかいう試みとかをやったりしていたが、同様にコンテンツのネット化においてはそんなのはプロモーションのひとつにはなってもコンテンツの本質的な価値を生み出すものではないと僕は思っている。だから新しいメディアで増える次元を利用して従来のコンテンツが進化するとしたら、まったく違うものが誕生するのだろう。そういう意味では書籍というメディアの場合は、絵本だったりコミックというものが新しいコンテンツとして誕生したといえる。


では、従来のコンテンツは新しい高次元のメディアでもなにもしなくてもいいのか?電子書籍だったら従来の書籍の単純な電子化ということでかまわないのかというとそれも違ってくる。次元は変わらなくても同じコンテンツであっても、違うメディアには従来とは違ったよりふさわしい表現形式が存在するはずだろうからだ。


新聞だったら、ネット版では動画とか音声をおまけで貼付けるのではなく、まずネットにあった文章とはなにかを模索して書き直せということだ。ネットニュースで必要とされる文体は紙の新聞とは間違いなく違うものになる。


コミックであれば書籍という物理的な媒体の制限により生まれた見開きとかコマ割とかの概念をいったん捨ててもいいんじゃないか、そうしたときに考えられる表現方法というのはなにがあるのだろうか?そもそもいま使われているマンガの文法とはだれがどのようにしてつくったものだったのかというのが最初に紹介した本で大塚英志が展開しているテーマだ。


このような視点はネット時代にコンテンツに関わるすべての人間が持つべきものだと僕は思う。そしてほとんどのコンテンツ業界のひとはこの問いから目を背けつづけているのだ。

理系だけど「リトルピープルの時代」を批判してみた

前回の続きだ。最後に書いたようにぼくが宇野常寛氏(以下敬称略)の新作「リトルピープルの時代」での疑問点は3つある。


(1) グローバル資本主義というシステムと小さなビッグブラザーである個人が一体になって新しい”壁”をつくっていると主張しているように本書は読み取れるが、その両者を区別せずにリトルピープルという言葉で扱うのは、本書の議論上では妥当とは思えない。


(2) (1)による混乱からの帰結として、拡張現実が新しい”壁”への対抗法という結論になってしまっているとぼくは考える。これはシステムが生み出す現実からの逃避をたんにいいかえているだけではないか?


(3) 本筋ではないと思うが、村上春樹への批判は想像力の欠如ではなく、倫理的にやってほしいという、これはぼくの個人的な希望である。


(1)についてだが、宇野常寛はだれしもが小さなビッグブラザー=リトルピープルとなるのが現代だといいつつ、しばしば”壁”としてのシステム自体に対してもリトルピープルという呼称を用いているようだ。どうもリトルピープルとは小さなビッグブラザーであるだけではリトルピープルではなく、グローバル資本主義つまり貨幣と情報のネットワークに”つながっている状態でいる”小さなビッグブラザーというニュアンスを宇野常寛は強調したいようだ。つまりリトルピープルは個人でもありシステムでもある。これは序章で壁とは個人の外側ではなく内側に存在するものだと述べられていることからも、リトルピープルの両義的な定義は意図的だろう。


確かに、現在の人間は貨幣と情報のネットワークにつながらずに生きることはほとんど不可能だ。また、貨幣と情報のネットワークも究極的にはひとりひとりの人間の関わりを素子とした集合体として成立していることも事実だ。だから、リトルピープルの時代の”壁”は外部の敵としては描けない。ぼくら自身が”壁”なんだ。ざっくりいうとそういう理屈を主張しているように見えるが、ぼくはやはり個人と敵にもなりうる”壁”とは、たとえ、個人がその”壁”の一部であったとしても分けて考えないとおかしなことになると思う。


考えてもほしいが、個人対その個人自身も含まれる集合という構造自体は人類の歴史が始まって以来の個人と社会の関係とそのまま同じ話だ。そして宇野氏のいうリトルピープルの時代とは、社会が非人間的なシステムから構成されて目に見えにくくなっているわけだから、個人と社会との関係で考えればこれほど個人と社会を別物とあつかうほうがふさわしい時代はない。そこであえていっしょくたに議論しようとするからいろいろとややこしいことになるのではないか。ビッグブラザー=国家に変わる悪の象徴としてシステムを持ってきた場合に、システムから必然的に生み出されるものもシステムの一部だというのは正論のようにみえるが、よくよく考えると論理が主客転倒してはいないか?


宇野常寛の定義するリトルピープルとはいったいなんなのか?たんなるちいさなビッグブラザーだというならあまり矛盾はおこらないが主張としてはすでにだれもがこれまでもいっている陳腐なものだ。現代の価値観はほんと多様化してますよね、のひとことですむ。やはり宇野常寛のリトルピープルというのは小さなビッグブラザーが社会にはりめぐらされたシステムの影響下にあるという特徴を重要視して、それがリトルピープルという定義にもシステムがふくまれているんだという意味をこめたいのであろう。そうであるから、リトルピープルの時代にシステムが必然的に生み出した悪として、9.11やオウム真理教地下鉄サリン事件がでてくるのだ。宇野氏の世界観ではシステムが生み出す悪と戦うリトルピープルの時代とはシステムの先兵みたいなリトルピープルと戦えばいいということになる。じゃあ、それだと世界的な金融危機や環境問題とかはどう説明するのか?システムもリトルピープルに含まれるという定義だからどっちもシステムの悪ということで問題ないという解釈なのかな?いや、でも、それじゃ定義が広すぎるだろう。やっぱりこのふたつは全然性質の違う別の問題として区別して扱うべきものだ。


ちなみに、ぼくの見解では9.11やオウム真理教の原因は、ビッグブラザーでもリトルピープルでもどっちでもいいが、とどのつまりは人間が起こした事件である。人格を持たないシステムが起こした事件ではない。リトルピープルの時代はむしろ個々の人間はもちろんこと、大きな物語を用いてすら、もはや人間には全体のシステムをコントロールすることが難しくなってきた時代だと考えるべきだと思う。システムが人間の手を離れて自律的に進化しはじめている時代なのだ。9.11やオウム真理教は倫理的な是非はひとまずおいといて、歴史の主導権をシステムに奪われはじめた人間側からの必死の抵抗だと位置づけてもいいぐらいだと思う。


(2)であるが、上の議論ともつながるが、自分のまわりだけを見つめて、そこの世界を豊かにしていくというのを、壁へ対抗する想像力と位置づけるのはいろいろ矛盾しているんじゃないかということだ。それってたんに現実を受け入れてあきらめているだけじゃないか?ようするにシステムの存在については受け入れて抵抗しない。そして自分もシステムのパーツであるとしてシステムにコミットするわけだ。しかし、それを宇野氏は壁への抵抗をあきらめたこととはみなしていない。上述したようにシステムとリトルピープルは一体であるとみなしているので、他のリトルピープルとの干渉の中で壁へは抵抗できるということにしているからだが、これは欺瞞ではないか?


思うに社会を支配するシステムを自分には関係ないとものと、とりあえずおいといて自分のまわりだけしか認識しない生き方というのはなにもリトルピープルの時代と名付けなくても日本ではむしろ江戸時代からつづく本来の生き方ではないかと思う。ようするに「お上」という概念ってそういうことではないのかと思う。「お上」は別世界と認識して日々の日常を生きることに集中する。それだったら、まさしくただの本書で村上春樹がいうところのデタッチメントとしての態度だ。その日常を仮想現実化して充実させる方向へつきつめれば、お上へ対抗したことにはたしてなるのか?お上はお上、うちらはうちらで楽しくやる。楽しんだが勝ち。主張したいのはそういうことなのか?


(3)は、上のふたつにくらべればどうでもいい話だが、絶対的な正義のない世の中において、主人公がデタッチントなんだかニヒリズムなんだかを貫きながらも、それでも正義にコミットメントする方法を模索した村上春樹の試みについて宇野氏は責任転嫁モデルと評している。夢の中で殺した相手を、ヒロインが現実でかわりに手を汚して殺してくれるというプロットってなんなんだと、ぼくも思ったから、とても妥当な命名だと思う。ついでに倫理的な批判ではないと何度も宇野氏は主張しているのだが、村上春樹はナルシスズムに溢れた主人公になぜかヒロインが勝手に惚れてくれて無条件の承認を与えてくれるという設定を多用することに関して、レイプファンタジー構造というどうみても倫理的に批判しているとしか思えない名前で呼んでいる。また、ライトノベルとかにもよくある構造だということも同時に指摘している。


なににもかかわらず、倫理的な問題で批判するのになんの意味があるのか、そんなことよりも想像力が足らないことのほうが問題なのである、として批判しているんだが、いや、むしろそこは倫理的に批判しろよと思った。だって、自分勝手な主人公がなにもしていないのに、なぜか女の子がよってきてやさしいやさしいとかいって誉めるって、ようするにライトノベルとか深夜アニメに多用されている設定の原形を村上春樹は何十年も前からやっていたってことじゃん。


村上春樹・・・おまえか、そもそもの元凶は・・・、とぼくは思った。(タグ:おまわりさんこっちです)


あんなひどい設定をよく堂々とみんな使うなと思っていたが、広義の純文学のジャンルにも分類されている大ベストセラー作家がつかっているんじゃ、しょうがない。みんな真似するわ。そして、なにもしなくても勝手に女の子がよってくるんだから、レイプファンタジーというよりは和姦ファンタジーとでも呼んで非難したほうが適切なんじゃないかと思った。まあ、これは本筋とは関係ないどうでもいい文句だ。本書中にも引用されていたが、実はぼくがしらないだけでいままで、いろんなひとがさんざん指摘してきたことなんだろう。きっと。でも、とりあえずぼくはしらなかったので、村上春樹ライトノベルや深夜アニメに与えた悪影響というのは相当あるんじゃないかと思ったし、そのあたりのことをもっと知りたいと思った。




最後にぼくが主張したいことを書くと、非人格的に自律進化をつづけるシステム、とりあえずは貨幣と情報のネットワークとしてのグローバル資本主義ということにして、それとどう人間が向き合うべきかというのが、リトルピープルの時代の人類のテーマなんだと思う。そこでは、自律進化するシステムが今後どういうふうになっていき人間にどういう影響を及ぼすかを研究し分析することが学問の本筋じゃないかと思う。人間の文化が現在の環境でどうなるっているかの分析ぐらいなら、まだ成立するかもしれないが、それだったら分析にとどまるべきで、その結果を肯定して、これから人間の生きる道の指針はこれだという結論にもっていくのは根本的に間違っていると思う。


それよりもぼくがこの本を読んで気になったのは、人間が貨幣と情報のネットワークとの直接対峙を避けて拡張現実のほうへいったとしてその舞台となるネットとは、いまいちばん自律進化したシステムが大量発生している現場だ。今後の人間社会にしろ文化を論じるときシステムやネットをブラックボックスではなく、きちんと理解して議論することが圧倒的にいまの日本に足らないのではないかと僕は思う。


そしてもうひとつだけいおう。この本が3.11の震災後の最初の言論の書であるとするのであれば、3.11とは社会を支配する非人格的なシステムが突然崩壊することもありうるということを示したイベントであると定義できると思う。宇野氏がビックブラザー解体時の80年代後半からブームとなったと指摘した世界終末後を描いたファンタジーの物語が現実味をおびはじめたということだ。システム自体の崩壊の危機をうっすらとでもひとびとが予感しはじめた震災後のひとびとの想像力の結論が仮想現実への逃避ということで本当でいいのか、と思うのだ。