コンテンツの2次創作が重要な理由

フェアユースの議論が、ぼくにはどうにもなじめないので書いてみる。

なじめないというのは、現在、おこなわれているフェアユースのテーマはコンテンツの質をあげてより面白く、素晴らしいものにするという観点がまったく欠けているからだ。

米国先導で推進されているフェアユースの本質は、いわば21世紀版”囲い込み運動”であって、ネットにおける覇権というものを確立するために都合のいいような制度に変えようというだけのはなしだ。

コンテンツ業界の利益とかはあんまり考えられていない。犠牲にしてもかまわないという判断は働いているのだろう。もしくは、犠牲にしようというつもりすらないぐらい、考慮されていないのだろうと思う。

ネット時代においてフェアユースがある国とない国ではネット産業の競争力に大きなハンデがつくので、フェアユースを認める流れ自体は変わらないとは思う。なんで、現状の議論自体がどうなるかについて、そっちにはまったく関心がない。


じゃあ、なにをいいたいのかと思うと、世界的にもフェアユースの考え方にはコンテンツ主体のアイデアはまったくないというのが現状だと思うから、日本はコンテンツ主導のフェアユースの考え方をつくったほうがとくじゃないかと思うのだ。

そのほうが中身のあやふやというか、たいした内容も意味もない「日本版フェアユース」という言葉も生きてくるというものだ。

コンテンツ主導のフェアユースつうのは、適当に、いま、でっちあげた言葉なので、なにがいいたいのかというと、検索における引用だとか、サムネイルだとか、ネット産業があたらしいビジネスをつくるときに既存のコンテンツを利用しやすくするためのルールだけじゃなくて、コンテンツ産業があたらしいコンテンツをつくるときに既存のコンテンツを利用しやすくするためのルールをつくりましょうということだ。


こういう話をすると、ようするにユーザがつくるMADとかの二次創作が面白くてオリジナルコンテンツの宣伝になるから認めるべきというよくある主張なのかと思う人がいるかもしれないが、そんな表層的なことをいいたいわけではない。
ぼくが主張したいのはクリエイターのクリエイティビティを確保・維持するためには、コンテンツ制作の難易度をさげていくことが、とても重要だということだ。
現代においては、コンテンツがマルチメディア化、高度化していくにしたがって、コンテンツ制作のハードルはどんどんあがっている。

一番わかりやすいのはゲーム産業だ。かってゲームビジネスはもうかってもうかってしょうがなかったが、現在のゲームビジネスはかなりギャンブルに近い。

理由はCPUの性能があがってできることが増え、プログラム容量も肥大化し、3DCGなんかもつかいはじめてコンテンツの制作コストがあがっていく一方で、ユーザが細分化されていって、作品あたりの売り上げ本数が落ちているからだ。


ネットでのコンテンツビジネスも似たようなことが発生する潜在的な可能性はもっている。ただ、ゲームビジネスとちがって、幸いなことにネットのコンテンツビジネスはまったく儲からないので、そもそもそこに新たにコストをかけたコンテンツを投入するプレイヤーはあらわれないというのが違いだ。なので現状はネット以外で成立しているコンテンツを二次利用というかたちでネットに供給するというのが現在の落としどころになる。


ただ、この構図は既存のコンテンツビジネスにネットが寄生しているだけで、もし、CDやDVD、TVCMの売上が今後減少していく中でオリジナルの市場が消滅したとすると、ネットにコンテンツは提供されなくなる。


このままいくとプロのコンテンツは死滅して、UGCばかりがネットにあふれる結果になりかねない。


重要なのはネットからの乏しい収入で成り立つようなプロがつくるコンテンツの世界というものが、まず、ないといけないと思う。本当は乏しい収入じゃいけないし、現状のコンテンツ産業の市場規模までもってくポテンシャルはネットにはあると思うのだが、すぐには無理だ。


そう考えると、ぼくはコンテンツ産業を守りたいのであれば、優先度が高いのは、ユーザがMADをつくる自由よりも、プロがMADをつくる自由じゃないかと思う。


ユーザの自由は、ぶっちゃけ、なし崩し的なかたちもあって、現状、半分認められている状態に近い。プロは完全に駄目だ。ということはネットでコンテンツをつくるのにプロのほうがハンデがあるという状態だ。これじゃ勝てるわけがない。MADはひとつの例にすぎなくて、プロがコンテンツをつくろうとするときの制約は他にもいろいろある。だれがうつっているか、なにがうつっているか、テレビだとすべてに権利処理が必要だ。そのルールをそのままネットに持ち込んだときに不利になるのは既存のコンテンツ産業だ。


コンテンツ産業が成立するためには、現実のマーケットサイズにあわせてコンテンツの制作コストを下げるというのと、アマチュアとつくるコンテンツと差別化することが必須条件で、そのためにはコンテンツ制作するためのルールを変える必要があるというのが、コンテンツ産業にとっての攻めのフェアユースの議論になるのではないだろうか。


もうひとつ、ぼくが2次創作とかを自由にしたほうがいいと思う理由は、そのほうが個人にクリエイティビティの主導権がもどってくるだろうからだ。また、ゲームの話にもどると、RPGがここまで量産される中、シナリオは本当にクソばっかりだ。わりあいシナリオがましなのは、ゲームシステムがこなれて、ほぼ固定化されているものだ。


人間を感動させるコンテンツは大勢の会議から生まれるものではなくて、究極的には個人がつくるものだ。ところが、ここまで表現方法が多様な世界では、クリエイターが表現方法のすべてに携わることはほとんど不可能になる。クリエイターとしてスタート地点にたつために政治力と権力が必要になったりする。


個人がもういちどクリエイターの主役になるために、2次創作の自由と分業がスムーズにできる仕組みが必要なのだと思う。いまネットで既に進行中のことだ。そしてそれが本当に必要としているのはユーザではなくて、コンテンツ産業なのだとぼくは思っている。