経営理念が必要とされる理由なんてこんなもん

shi3z氏もずいぶんと大人になって賢くなってきたかと感心させられて前回のブログを書いたが、shi3z氏はやっぱりshi3z氏であるという命題は、ダイヤモンドの輝きのような不変性をもって正しいという事実を突きつけられる結果となった。僕の思い込みが完全に誤っていたわけで、まことに申し訳ない。どうやら知らぬ間にshi3z氏に夢を見ていたようだ。現実主義者を自任する僕にとっては二重の敗北だ。


さて、前回のブログで僕が間違っていた部分はきちんとすべて間違いを認め、謝罪したところで、前回のブログのブックマークでよせられたコメントのいくつかを見て思ったことを付け足しで書いてみようと思う。


まず、経営理念が必要だというひとの中で経営理念をどういうものと理解しているかが統一されておらず、いくつかの命題について異なる立場をとるひとが同じ主張をしたり違う主張をしたりてんでばらばらになっていることだ。なので、経営理念をどういうものと考えるかについていくつかの整理しておいたほうがいいポイントをあげてみよう。


(1) 経営理念は経営戦略の一部なのか?もしそうだとしたら、数ある経営戦略のひとつにすぎないのか?それとも上位にくるのか?
(2) 経営理念を守ることは会社にとってとくであると考えるのか?損得とは関係なく守るものとして考えるのか?
(3) 経営理念は会社がスタートアップのときに必要なのか?大きくなってきたときに必要なのか?
(4) 経営理念でひとは集まるのか?ないと辞めていくのか?


 まず、(1)について説明する。コメントをみていると経営理念を経営戦略の一部と考えているひとがいる。そのひとの中でも2種類いて経営戦略のひとつとして捉えているひとと、経営戦略のなかでももっとも上位にあたる大方針みたいに考えているひとがいる。
 後者についてはあきらかに間違いだ。企業の活動の本質とは利益をあげることと存続することだ。経営戦略の最終的な目標もこのふたつになる。だが、経営理念を守ることと、もしくは存在することと、儲かって潰れないこととはほとんど関係ない。もしくは関係あったとしても因果関係は弱い。したがって経営戦略のもっとも基本的な部分が経営理念であるという考えは勘違いである。経営戦略のひとつとして経営理念をもつということが成立する可能性はある。これについては後述する。


 つぎに(2)について説明しよう。経営理念を守ると会社の存続にとくであるという立場と損得とは関係なく守るべきものだと考える立場の2種類のひとが存在する。前回のぼくのエントリに批判的なひとにはどちらの立場のひとも存在するようだが、後者である損得は関係なしに守るべきものだと思ってるひとでも、経営理念を守ったほうが得だと思っているひとが多いようなので、結局は、大部分のひとが経営理念を守ったほうがとくだと思っているようだ。
 しかし(1)の説明でも述べたように経営理念を守ることと経営戦略は因果関係は薄いので、むしろ経営理念をきちんと守ったほうが経営戦略の自由度を下げて会社としては損をする可能性が高いことをまず指摘したい。もうひとつ指摘したいのは、特に前者のひとについて滑稽なのだが、この経営理念をもったほうが得だと主張しているひとが、同時に経営理念を持たないことを道徳的に非難していることがしばしば見られることだ。昔話の花咲じいさんのように、「正直なほうが、結局、得をするから正直でいなさい」ということを主張しているわけだ。企業の場合ではようするに「そのほうが儲かるから経営理念をつくって守れ」といっているに等しいのに、なぜ「経営理念」をもたないのだと道徳的に非難しているわけだ。


 (3)の経営理念が会社のスタートアップの時に役立つのか、大きくなったときに(あるいは大きくなるために)必要なのかについてもコメントの意見は分かれているようだ。一般には教科書的には会社が大きくなったときに経営理念は必要とされている。会社の人数が増えて経営者の理念を社員全員に直接伝えることができなくなったときに経営理念を成文化して社内で共有することが有効だとされている。スタートアップのときに必要だと思う人は、経営理念とは、たんなる文章になったものでなく、背後にある経営者の思想そのものだと捉えるようなひとだろう。
 ぼくはスタートアップのときにも大きくなったときにも基本的には企業にとっては役に立つものじゃないと思っている立場だが、経営者からすれば経営理念をもつことにそれなりのメリットはないわけではないと思っている。それについては後述する。


 最後の(4)の経営理念で社員が集まったり、ないと辞めたりするかどうかという点についてコメントしよう。そんなことで社員は集まったり辞めたりしない。すくなくともHPの経営理念のページがないといって辞める社員なんていないし、経営理念のページを判断基準にして応募してくる勘違い社員はゼロではないかもしれないが、まあ、いない。
 社員に魅力ある正しいヴィジョンと目標を示すことは大切だが、それは経営理念なんて曖昧なものじゃなくて、経営戦略に属すものだろう。
 しかし、経営理念がないから辞めるとかいう言い訳はとても便利ではある。具体的になにが原因だったのか曖昧にできるからだ。音楽性の違いでバンドを脱退するとかいうのと同じだ。実際には金や女の取り合いだったりする。給料に不満があった。上司と喧嘩した。あるいは自分のプロジェクトが大失敗して、他人のプロジェクトが大成功したために社内に居場所がなくなった。そんなときに本当の理由を詳しく説明すると格好悪いから、経営理念がないとかいって辞めたと主張する人間はいるだろう。


 前回のぼくのエントリに批判するひとは、総じて、なんか妙な幻想を経営理念にもっている。なぜ、経営理念が企業に必要なのかをきちんと説明できずに、ただ、経営理念をもつのが正しいと信じている。いろいろな会社の経営理念や企業理念を実際に読めば、それらの文言が本当に役に立つのか具体的に想像することは難しいことが分かる。だから、なにか具体的な想像を欠いた架空の理想の経営理念を念頭において話をしている。


 理念をもつひとと理念がないひとだと、そりゃ理念があるひとのほうが立派だ、おそらくは、そんなかんじの単純な思い込みがまず前提にあって、しかもそれが企業の存続にとって必要不可欠だと信じている。しかし、なんどもいうが、経営理念をもつことと企業の成長も存続も因果関係はあまりない。会社の成長と存続のためには正しい経営戦略をもっていることのほうが重要だ。


 経営理念が会社にとってなにより重要だという考えは、事実ではなくて、なにかの理想の表明にすぎない。いってみれば「人間ひとりの生命は地球よりも重い」とかいうのと同じだ。自分の好きな女の子を救うために世界の将来を危険にさらすことを選ぶアニメの主人公みたいな考え方であって、なぜかある種の人間の共感を呼ぶが、明らかになにかが間違っている。


 ゆとり教育おそるべしである。想像なのだが、経営理念がない企業なんかにはいりたくないとかいう思っているひとは、学生のかたが多いんじゃないかなと思う。そして、自分のやりたい仕事ができなければ働く意味はないという価値観をもっているひとじゃないかと思う。経営理念をもたなけれ会社の意味がないというのと、自分が本当にやりたい仕事をみつけないと働く意味がないという考え方は似ている。企業の本質は利益追求であり、人間は食うために働くという真実から目を背けた考え方だ。


 別に理想がいけないといっているわけじゃない。理想は理想であり追い求めることは素晴らしいことだが、それを現実と誤解すると不幸になることを理解すべきといっているだけだ。


 さて、ここまでいかに経営理念は経営戦略とは異なり、役に立たないものであることを説明してきたが、ここまで世の中で大事だといわれているのだとすれば、なにかの有用性なり必然性はあるのだろう。それがどういうものなのかを具体的に考えていきたい。


 まあ、よくいわれることを総合すると、一番中心になるのは、会社が一体になる。社員の意識を統一するのに必要だということだろう。社員が集まるだとかないと辞めるだとかいう主張もここにいきつく。しかしながら、別に共有するのは経営戦略だったりなんらかのヴィジョンのほうが実用的でメリットあるように見える。それが経営理念である必然性はどこにあるのか。


 すごく夢のないぼくの解釈をいわせていただくと、これは一種の宗教儀式であり、経営者がカリスマ性を持つための手段であるということだ。そのためには社員があまり反論できないよくわからない正論を振りかざすほうがいい。過去の経験を話すと、ぼくは技術者としてもそれなりの力をもっているという自負をもっていたが、まわりの部下にぼくよりも全然すごい技術者があらわれはじめると、まず、具体的な技術について語ることは避けることにした。細かい最新の知識とかに影響されないシステムの設計論とか、わりあい上位のことだけ語るようにした。それすらボロがでそうな危険を感じると、ビジネス的な視点とか、そもそも論とか大所高所から語るようなことしかいわなくなった。自分でヴィジョンも語れず、まともな経営戦略もたてれない経営者も多いから、そういうひとが経営理念に逃げるのにはとても合理性がある。ふつうの社員にはあまり興味ないテーマだし、正論ではあるから、こけおどしにはもってこいだ。


 さらにいうと、とくに創業経営者が経営理念にのめりこむ動機がある。だいたい家族やまわりに迷惑をかける可能性が高い起業という選択をした経営者は、ようするに自分の夢だか欲望だかしらないが、そういうもののために他人を犠牲にできるという自分勝手な価値観の持ち主だ。自己正当化のためには崇高な理念は必要だろう。また、経営者と社員の基本的な関係には、安く働かせて、より多く働かせば会社の利益がでるという構造がある。他人をより多く搾取するのが有能な経営者なのだ。ここに経営者という生き方を選択した人間がもつ原罪がある。多少の良心があるのならば、余裕ができた経営者が、企業の存在理由を求めはじめるのは自然なことだ。


 経営理念を掲げるメリットでは、あとひとつ確実なのがある。これはコメントでも指摘があったが、会社をよくみせるためのものだ。ルネッサンスの思想家マキャヴェリがいったように、君主は慈悲深く善良であるように”思われる”必要があるのである。これは社内的にも社外的にも必要な擬態だ。


 さて、ここまででぼくが経営理念とは現実的にはどういうものなのかと考えているかの説明は終了する。


 ぼくは天の邪鬼なので最後にさんざんいらないといってきたはずの経営理念をもつのだったらこういうものじゃないかという考えをぼんやり披露することにする。


 まず、根本的に企業の利益と存続の追求という資本主義の論理と、経営理念とは、別々の異なる論理であるということだ。損得勘定関係なしに経営者が追求することに決めたものであるべきだ。どうしても実現したいと経営者の内面からあらわれた欲求なり使命感にもとづくものだろう。それは必然的に資本主義の論理と経営理念の論理の間でバランスをとりながら葛藤することを選択するという生き方だ。そして現実的には資本主義の論理の強者でないと経営理念の論理をつらぬくことは難しいだろう。けっして経営理念は資本主義の論理を補強するような存在ではない。むしろ矛盾する。その理念や結果に共鳴するひとがあらわれて結果的に得をすることはあるのかもしれない。でも、そんなことは目的でもなんでもなく追求すべきものなのだ。前回のエントリについたコメントをひとつ紹介する。


xevra 経営理念は綺麗事なんかじゃない。俺がこの会社を通じて社会の笑顔を増やして見せる!という誓いだ。そういう誓いを綺麗事だと軽視するからツマンネー会社になっている事実をもっと真摯に考えるべき


 おそらくxevra氏は頭も性格も悪そうだし社会経験もあんまりないんだろうなと思うけれども経営理念が誓いだという認識についてはぼくのそれと近い。


 ただ、そこまで誓えるものっていったい何だろうと考えると、やっぱり僕は一般的な経営理念に共感することができないし、経営理念を掲げていることがそれほど立派だとは思えないのだ。理念があろうがなかろうが、およそ企業が社会に貢献するということを考えると、存続して雇用を提供すること以上に大事な企業の使命は思いつかない。それはどんな企業であっても同じだ。せいぜい、アイデンティティを見いだすとすれば、余所じゃ雇ってくれないだろう社員を雇用することぐらいだろう。雇用のつぎに、国への貢献ということで考えるのであれば、外貨を稼ぐか、国内から富が流出しないよう頑張るといったことが大事なのではないか。それ以外のものはどんなに立派なものであっても優先度はその次にくるように思えてならない。


 まあ、いいや。いずれにせよ、僕がいいたいことをまとめると、企業を経営するということの本質は利益追求であって、そこに経営者の原罪がうまれる。その罪悪感を埋めるべく、利益追求以外の価値観を理念として持ちたいと願うのであれば、それなりの覚悟と力が必要だということだ。