日本のwebがレベルが低い理由


梅田望夫さんの記事が話題になっている。


日本のwebがサブカルチャー分野を除いて、米国よりも遅れている。米国では頭のいいひとが使っているが、日本だと馬鹿が使っている。まあ、こんなかんじの主張として受け止められていて、批判をずいぶんと浴びているようだ。


梅田氏のおもうレベルの高いネットの使い方というのは現実をパワーアップさせるツールとして用いることらしい。
当然、現実をパワーアップさせるためだから、現実世界でも能力の高いひとがネットをつかってさらにパワーアップするというイメージなのだろう。そして米国にくらべて日本のネットにいるひとが優秀ではなくて馬鹿ばっかりだという感覚があるのだろう。


おそらく、ここの認識に根本的なずれがあると思う。


梅田氏は早く日本も優秀なひとがネットをつかいようになってほしいと願っているんだろうが順序が逆だ。日本は米国よりも遅れているのではなく、米国よりもすすんでいるので、”馬鹿”が優秀なひとを駆逐しただけにすぎない。日本のほうがネット文化は5年から10年ぐらいは先を進んでいると思う。


梅田氏が思っている日本の”馬鹿”とはなんだろうか。それはネットをつかいこなし、ネットの情報に精通するヘビーユーザのことだ。現実社会に住み、ネットをツールとして利用するために一時的にネット社会に腰掛けている現実社会で優秀な人ではない。どちらかというと、現実社会では居場所がなくて、暇がたくさんあるひとたちである。


梅田氏が彼らが”馬鹿”と思おうが、ネット社会において”馬鹿”がヒエラルキーの上位になるのはあたりまえだ。日本はネットをツールではなく住み場所として選んだ”馬鹿”がとても多いという意味で世界の一歩先をいっているネット先進国なのだ。


日本でネットをツールとしてつかうひとたちはネット上では”馬鹿”たちのせいでみえにくくなってしまった。それは時代の進化の必然だ。いま、むしろ梅田氏のいう優秀なひとたちがいるのはケータイネットの世界だろう。現実世界でもハイレベルなひとたちはPCネットはつかわなくてもケータイネットは使っていることが多い。


しかし、おそらく海外に住む梅田氏は日本のケータイ文化のことはしらないだろうし、しっていてもケータイこそが彼の理想だとは思わないと思う。


今後、ネットにすみはじめたひとと現実にすむひととの折り合いがどうなるか、ケータイとPCのネット社会がどのように融合していくのか、それが今後のネット社会の未来を決めるテーマであって、そのこたえは世界中のすべての国のなかで、まず日本が示すのだと思う。