ポジショントークのスケールが小さいひとたちを嘆く

あ、また、説教エントリフラグの立つようなタイトルをつけてしまったぜ。


人間40を過ぎると説教が好きになってこまります。


ああ、病めるひと、健やかなひと、肌が黒かったり白かったり黄ばんでいたりするすべてのリア充非モテたちよ。世界中のあらゆるひとたちにわたしの説教をとどけたい!



はてブのコメントをみていて思うのは、世の中のひとのすべての発言をポジショントークでのみ理解しようとするひとの多さです。ポジショントークなんて人間の発言のしかたを決めるさまざまな要素のひとつでしかないのに、ポジショントークで考えると、すべてのひとの発言が理解できるというポジショントーク万能主義がはびこっていることにぼくは絶望します。


ぼくが思うポジショントーク万能主義の落とし穴を4つにまとめてみました。
・ 相手がポジショントークをするメリットの大きさをきちんと考えたほうがいい。
・ 相手が正しいポジショントークをできる能力があるか、考えたほうがいい。
・ 逆にあなたが正しいポジショントークを判別できる能力があるか、考えたほうがいい。
・ ポジショントークのスケールがただしいかを考えてみるべきだ。


ポジショントークだろうがなんだろうが、人間が理屈で会話しているときに、正しい理屈は正しいし、間違っている理屈は間違っています。なんでこいつは間違っている理屈を主張しつづけるんだろうというときにはじめて、こいつの発言は「ポジショントーク」かもしれない、と考えるぐらいでいいと思うのですが、ポジショントークをしゃべっているに違いないと決めつけて相手の論理を否定したり耳にもいれないようにするのは、まったくもって論理的な行動ではありません。


ポジショントーク論がはびこるのは、だいたいもめる議論とかって、それなりに背景知識とかが要求されて、要するにみんなのいっていることを理解するのがめんどくさいんで、簡単な理解のショートカットとしてポジショントークで理解した方が楽だというだけのことです。実際、ポジショントークだというひとで、どこがどうでどうだから、ポジショントークだという説明をしているひとなんて滅多に見ません。なんかレトリック的なつかわれかたをされています。


相手のいっていることが、本当にポジショントークかどうかを考えるとき、ポジショントークだったとしてメリットの大きさを考えてみるべきです。そうすれば、国会答弁や厳しいビジネスディールの場でもない、暇人が暇人相手に日記を書いているネットの片隅で、ポジショントークを展開していると断定することのばかばかしさを理解できると思います。そんなもんヒマでかまってちゃんだから書いているに決まっているだろ。どうすればブクマがたくさんつくか、ネガコメがつかないか、とかを考えることのほうが優先度高いにきまってんじゃん。


ただ、人間は自分の生まれ育った環境、いま生活している環境に左右されて、知識や考え方が身につきます。なので発言、主張が自分の職業などの属性に左右されるのはあたりまえです。ですが、それはポジショントークとはいいません。(たぶん勘違いしているひと絶対に多い)ポジショントークとは自分が有利な結果になるように議論を恣意的に誘導することであって、自分の立場と知識から当然正しいと思っていることを主張するのはポジショントークとはいいません。人間が自分の知識と経験から正しいと思っていることを発言するのはあたりまえのことです。そして知識と経験が人それぞれ異なるのがあたりまえだから、人の意見はすれちがい、議論したり調整したりする必要が生まれるのです。


ポジショントークは議論を自分が有利なように(できればこっそりと)誘導するテクニックですから、当然、議論の本質を理解していないとできないどちらかというと高等な技です。ところがネットでは議論を全然理解していないひとがポジショントークを語ったりしています。ポジショントークんぬんというひとの意見をただ真に受けるひとは、まず、自分が議論を理解しているかどうかを自問したほうがいいと思います。理解していないのにポジショントークうんぬんというだれかの発言を信じているとしたら、まあ、信じるのは勝手ですが、なにしろそもそも理解していないのだから、間違っているかもしれないということはちゃんと自覚すべきでしょう。


また議論が破綻しているひとがいたら、議論が破綻していることを指摘すればいいのであって、本人がポジショントークを意識しているかどうかなんて話がややこしくなるだけだから考えるだけ無駄です。


もうひとつ考えたほうがいいのはポジショントークをだれかがしていると仮定するときに、そのときのポジションのスケールは自分が想像しているスケールとは限らないということです。浮気をしている男が、「俺はこんな奴だから、また、間違いをしてしまうからもしれないけど、今は本当に反省している」と発言したとします。このときに、他の女の子と今後も浮気をしたいので伏線をはっている、と想像することもできますが、実は、彼は少子化問題を真剣に憂いていて少しでも日本の役に立ちたいという秘めた決意があるのかもしれません。


人間は自分の知識の範囲で相手を理解しようとします。自分が浮気をしている人間は相手もしているんじゃないかと疑い深くなりますし、少しでも早く列の先頭にいきたいと思っている人間は、列に割り込むひとに強く腹を立てるでしょう。権力志向が強くて権力をもっていない人間が、権力の腐敗と弊害を糾弾したがるのもよくある話です。人間が嫉妬心からだれかのポジショントークをいいたてるとき、相手にとっては実にスケールの小さな話をしていないかを考えてみるべきです。


たとえば、ネットでは、JASRACをすべてが金儲け至上主義で動いている団体と思っている人は多いですが、そんなもの私企業のほうが金儲け本位にきまっています。また、JASRACの考え方が古いと叩くとき、業界中ではむしろ先進的に新しい時代の考え方を取り入れ、説得する側の立場にもあったりします。そういったことを知らないで、なにがあっても脊髄反射的に「JASRAC=金儲け」の文脈でしか理解しようとしないのは、いかに建設的な議論のじゃまになっているのかがわかるでしょう。


あなたが、自分のことをふりかえるとき、自分の行動は単純だと思うでしょうか?複雑だと思うでしょうか?多くの人は、自分の行動は単純なときは多いけれども、そんなに単純というわけでもない、というのが実感に近いんじゃないかと思います。他人についても、だいたい似たようなもんで、そんなに単純なかたちに抽象化はできないなと、ぼくは思うのです。