理系でも分かる!宇野常寛氏の新刊を読んでみた

最近、理系も人文系の本を読もう運動を提唱している僕ですが、とはいっても自分自身もここ数年で大塚英志氏と東浩紀氏の本の何冊かをちょっと読んだというぐらいだから、語る資格は本来ない。


とはいえ似た境遇にある理系的な人間の人文書アレルギーを多少は解消する助けになることは書けるかもしれないと思い、最近、話題になっているらしい宇野常寛氏(以下敬称略)の新刊「リトル・ピープルの時代」の感想などを理系人間的に試みてみたい。


最初に断っておくが、この本は数年前の僕だと読めなかった類のものだ。しかし、慣れたのか、いまはなんとなく内容が理解できる気がする。実はこの本は献本されたらしく、ある朝、ひさしぶりに会社に来たら机の上に置いてあった。筆者なのか出版社なのかわからないが、僕なんかに読ませてどうしようというのか。だいたい、貰わなくても自分で買うつもりだったから売上げを一冊減らしていることになる。申し訳ないから裁断用にもう一冊買うことにしよう。


さて、内容を紹介する前に著者の宇野常寛とはどういうひとか知っておいたほうがいいだろうから、ぼくの断片的な知識で説明する。宇野常寛は批評家で年齢は32歳と若い。どれくらい若いかというと、日本の若手批評家の代表格である東浩紀が40歳だから、それよりも若い世代の批評家だということになる。彼の以前の作品は読んだことはないのだが、ぼくでも名前だけ知っている代表作はAZM48という東浩紀周辺の人間が総出演するらしいパロディ小説だ。ネーミングを聞いただけでも内輪受けしかしなさそうな悪ふざけだが、東浩紀本人も出演するショートムービーも制作されたから、東浩紀も喜んでやっているのかと思いきや、これが原因で宇野常寛東浩紀の怒りを買い破門されたらしい。


・・・理系人間はこんなどうでもいいエピソードを聞かされると、もはや、真面目に彼の論考など読みたくなくなるかもしれないが、まあまあまあ、理系の天才のほうがよっぽどキチガイ度が高いひとが多いことを思いだそう。この一見くだらなそうなエピソードも彼の天才性を暗示するものかもしれない。


■ この本のテーマ


とりあえずは著者の素性も完全に理解できたところで、この本のテーマというのをひとことで僕がいいきってみせよう。それは、


「ぼくらの前にたちはだかる新しい”壁”への”想像力”をどう持つべきか」


ということだ。


理系にはちょっと抽象的すぎる?この文はこの本中の表現をできるだけ使いながらぼくが書いたものだ。人文系の評論はすぐに一般名詞を専門用語化する傾向がある。しかも、その本だけでしか通用しない専門用語をすぐにつくっちゃうのだ。”壁_temp”とか、”想像力_temp”とかいう名前にしてくれればわかりやすいのだが、我慢して慣れてみよう。"壁"と"想像力"とはそれぞれどういう意味で使っている言葉だろうか?


まず”壁”について説明しようか。


”壁”とはぼくらの運命をぼくらの意志と関係なく決定してしまう力を持つ巨大な存在を象徴した言葉だ。昔だったら、そういう”壁”の典型は日本という国家だったりした。現在では国家よりも上位の存在としてグローバル資本主義というものができていて、それが国家に変わる新しい”壁”になっている、というふうにまずは理解してもらえばいいだろう。


次に”想像力”であるが、まあ文字通り想像力という意味だ。とにかく宇野常寛といえば”想像力”であり、”想像力”とかもってまわったいいかたをしていれば宇野常寛だととりあえず思っておけばいい。宇野常寛にとって想像力を持つというのはすごく大事なテーマで、ようするにいろいろな世の中の新しい概念にたいしてきちんと適切なイメージを持ちましょうということだとぐらいに解釈しよう。つまり、この場合は「”壁”というものをどうイメージすればいいのか?」というだけの意味だ。


さて、では”壁”というものは、どうイメージすればいいと宇野常寛はいっているのだろう?まずは簡単な昔の”壁”について説明しよう。昔の”壁”とは国家とかのことだった。ジョージ・オーウェルの有名な小説”1984”では独裁国家を”ビッグブラザー”として擬人化して扱っていた。そう昔のタイプの”壁”の大きな特徴は擬人化できることだ。ちなみに1984にちなんで宇野常寛はそういう擬人化できる旧来型の”壁”を”ビッグブラザー”と呼んでいる。


ここで擬人化できるということはどういうことかを考えてみたい。擬人化できるということはみんなで共通のイメージを共有できる、しやすいということだ。たとえば日本という国を擬人化して考えた場合に日本さんという疑似人格がなにを目指していたり、なにを正義だと思っているかということを、国民が共有することができるということだ。この共有されるイメージのことを共同幻想と呼んだり”大きな物語”と呼んだりする。大きな物語というのは詩的な表現に見えるが、これも専門用語だ。これはあちこちで使われる汎用の専門用語なので、覚えておいても損はない。


そして一方では擬人化できない”壁”も存在する。というか、近年はそっちの”壁”が主流だというのである。擬人化できない壁とはグローバル資本主義とか呼ばれる貨幣と情報のネットワークのようなものだ。国家なんかとちがって、こういうシステムはぼくらをとりまく環境のようなもので、深く世界中にはりめぐらされている。それを敵だと思おうとしても、自分自身も貨幣と情報のネットワークの一部になっているから、自分の内部に敵がいるようなものでとらえどころがない。こういう非人間的で無機質なシステムが新しい”壁”となって、従来の人格をもつと仮定できた国家とかの上位構造になっているというのだ。


ここで理系のオタクは、グローバル資本主義だろうが、なんだろうが、世の中のあらゆるものは萌えキャラに擬人化可能であるという独特の理論をふりかざして異をとなえるかもしれないが、議論がまったく進まなくなるので無視をすることにする。


で、だいぶ時間がかかったが、そろそろ宇野常寛のこの本で書こうとした目標がなんとなくわかってきたはずだ。


簡単に超訳すると、昔だったら例えば、擬人化した日本という国を敵ビッグブラザーであると決めつけて、学生運動したりしてそれと戦えばよかったが、現代の敵はいったいなんなのかはっきりしない。この世の中はどういうふうに構造になっていて敵はどんなものだと想像すればいいのか、わかりやすいモデルを私が提示してあげましょう、というのが、宇野常寛のこの本でのテーマなのである。


筆者がなにを書こうとしたかの説明だけでめちゃくちゃ長くなってしまった。こんな調子で、この本のあらすじを説明するのにどれだけかかるか不安になったひともいるかもしれないが、安心されたい。理系の人間にとって人文系の本を読もうとした場合に、一番、たいへんで苦痛なのは、この作者はなにをいいたいのかを理解するところまでのハードルだ。一番、たいへんな部分はもう終わったのである。目的と用語のいくつかさえ把握すれば、いっていることはさほど難しくない。理系の論理的な能力があれば十分以上に理解できるはずだ。次はどのようにして宇野常寛がそのテーマを実現しようとしたかについて説明する。


■ テーマの実現方法


宇野常寛が本書で提唱したのは、「リトルピープル」という新しい概念である。リトルピープルはさっき紹介したオーウェルの有名な小説1984にでてくる敵であるビッグブラザーをもじったものであるというのはみればわかると思う。なんか、ベンサムの有名な「最大多数の最大幸福」に対して「最小不幸社会」という概念を提唱した菅総理を思い出して、だいじょうぶか宇野常寛と心配になるところだが、このことばをつくったのは実は宇野常寛ではない。村上春樹だ。


じつは上述の新しい”壁”との対決が必要だみたいテーマをいったのは村上春樹で、宇野常寛村上春樹は失敗したみたいだから、かわりに僕が説明してあげましょう、というのがこの本の書かれ方なのだ。リトルピープルは村上春樹の最新作1Q84に登場する悪い敵の名前だ。1Q84は、もちろんオーウェルの1984の題名をもじったタイトルで、村上春樹はそこでビッグブラザーに変わる新しい現代の敵はこんなやつだーというぐらいの気持ちでリトルピープルというのをつくったのだろう。宇野常寛はそのリトルピープルという名前を借りて、いやいや村上春樹さん、あなたの書いているリトルピープルのイメージは間違っています。それはこんなやつのはずではありませんか?ということで本書「リトルピープルの時代」というのを書いたのだ。


宇野常寛が主張するよりリトルピープル的なリトルピープルとは仮面ライダーである。また、ビッグブラザーとはウルトラマンのことだとついでにいう。このあたりの比喩と例証はかなり面白く説得力もあるのでぜひ本書の第2章を読んで欲しい。ここでは宇野常寛が構築しようとしたビッグブラザー vs.リトルピープルの世界観だけ紹介しよう。


まず、宇野常寛が提唱する時代区分について説明すると、1968年以前の日本を「ビッグブラザーの時代」と定義し、1968年から1995年までを「ビッグブラザーの解体期」、1995年から現在にいたるまでを「リトルピープルの時代」と位置づけている。ビッグブラザーの時代とは人々が「大きな物語」を信じていた時代だ。この場合は日本とか言う国家だったり、共産主義とか資本主義とかいうイデオロギーだったりを指すと思えばいい。ビッグブラザーの時代とは、国民の多くが日本という国のことを自分の問題であるかのように感情移入していた時代であり、また、学生運動のように、理想の社会や正義があると信じて行動していた個人がたくさんいた時代だというような理解でいいだろう。ビッグブラザーの解体期とはひとびとがそういう共通の正義に失望し、信じられなくなった時代だ。そしてリトルピープルの時代とは個人のひとりひとりが小さなビッグブラザー=リトルピープルとなってお互いに干渉し合う時代だと考えようというのが宇野常寛の提案だ。


そして村上春樹氏の40年間の著作とウルトラマン仮面ライダーの40年間を重ねてふりかえりながらこれらの時代を考察するというスタイルをこの本はとっている。だいたい1968年ぐらいからビッグブラザーの解体期がはじまったのだろうと仮定しているのだが、そこでなにがおこったかというと、「大きな物語」が虚構の世界への逃避したということを指摘している。現実の世界にある国家や正義とかいうのが信じられなくなったひとびとは虚構の世界にそれを求めたという。だからガンダムなどに代表される架空の世界で架空のひとびとが国家や正義のために戦う物語をひとびとは支持した。そしてその架空の世界の「大きな物語」すら信じられなくなったのが「リトルピープルの時代」だというのだ。転換期の事件としては1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件をあげている。これは虚構の世界で生き延びてきた「大きな物語」が、現実に(悪い形で)飛び出してきたものだと考えられるからだ。もはや虚構の世界ですら「大きな物語」を信じられなくなり、「リトルピープルの時代」がはじまったのだという。そしてリトルピープルの時代を象徴する事件としては、9.11テロ事件とそれに続く米国のイラク戦争を挙げて、世の中に絶対の正義などなく複数の正義があって争っているのがいまの時代なのだというのが、宇野常寛がリトルピープルという概念を用いて説明しようとした世界観だ。


ここで宇野常寛のリトルピープルという概念がどういうものなのか、もうすこし説明しよう。宇野常寛のいうリトルピープルはたんにビッグブラザーが小さく個人レベルまでたくさんに分裂しただけというようなものともちょっと違うようだ。リトルピープルは新しい”壁”の象徴でもあるということは、グローバル資本主義=貨幣と情報のネットワークをその中に含まれている。つまりちいさなビッグブラザー的なリトルピープルというのは貨幣と情報のネットワークにつながっていて、さらにはそのネットワークの一部分でもあるという意味まで含んでいる。宇野常寛のいうリトルピープルはその一部分であるちいさなビッグブラザーである個人を指すこともあれば、”壁”そのものをさすこともあるのはそういう理解でないと説明がつかない。リトルピープルは個人でありながらシステムの一部であるという両方の状態をあわせもった意味として使われている。ちょっとややこしいが、量子力学みたいなもんなのかなと思えば理解は可能だろう。


■ 宇野常寛の結論


さて、これで、ほとんど、この本のだいたいの枠組みは説明した。これらを前提として、結局、宇野常寛はなにを主張しているのだろか?おおきく3つあるだろう。


ひとつは村上春樹論についてだ。宇野常寛村上春樹がかくも大勢のひとに支持され、とりわけ海外でも評価が高い根源的な理由をビッグブラザーの解体期において、すでにリトルピープルの時代を先取りした想像力でもって小説を書いていたことをあげている。そしてその先進的な想像力はいまや時代においつかれてしまったということを主張している。これが第1章だ。
もうひとつは仮面ライダー村上春樹が到達できなかった想像力を発揮していると具体例をあげて論証している。これは第2章になる。
そして第3章の結論として、リトルピープルの時代とは人間の内面を深くほりさげていくのが”壁”と対決していくための方向であり、そのためには虚構の世界を現実の世界とは別につくるのではなく、虚構の世界を現実の世界に重ねて現実の世界を豊かにしていく拡張現実にこそ未来があり、現にそうなりつつあるとしている。(拡張現実の例としてはネットによる2次創作やアニメの舞台の土地への聖地巡礼などの現象をあげているが、詳しくは本書を読んでほしい)


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さて、以上でぼくの理解した「リトルピープルの時代」の概要の説明を終わる。理系の人間や、自称頭の良くない永井美智子女史でも理解できるようにだいぶかみくだいたつもりだが、どうだろうか?興味をもっていただければ幸いだ。


さて、長くなったのでいったんここまで終わることにする。
次回はこの本で僕が思った疑問点を書こうと思う。疑問点はつぎの3つだ。


(1) グローバル資本主義というシステムと小さなビッグブラザーである個人が一体になって新しい”壁”をつくっていると主張しているように本書は読み取れるが、その両者を区別せずにリトルピープルという言葉で扱うのは、本書の議論上では妥当とは思えない。


(2) (1)による混乱からの帰結として、拡張現実が新しい”壁”への対抗法という結論になってしまっているとぼくは考える。これはシステムが生み出す現実からの逃避をたんにいいかえているだけではないか?


(3) 本筋ではないと思うが、村上春樹への批判は想像力の欠如ではなく、倫理的にやってほしいという、これはぼくの個人的な希望である。


以上


(次回へつづく)