ハウルの動く城がファンタジー映画の最高傑作であるわけ


ファンタジーとはなにか?現代のファンタジーの大きな源流はトールキン指輪物語など一世紀ほど過去のイギリスの児童文学に遡ることができるだろう。それ以前はお伽噺や童話の世界になる。


つまり、もともとはファンタジーは子供に聞かせる話として誕生したものである。


お伽噺や童話そしてファンタジーに人々はどんな思いを託してつくってきたのか。


ぼくの母親から聞いた話だが、昔、母親の子供時代、日本が貧しかった頃、狸に化かされたという話は学校 に弁当をもってこなかった子の冗談めいた定番の言い訳のひとつだったそうだ。つまり家が貧乏だから、弁当を持ってこないのではなく、狸に化かされて盗られただけだというわけだ。


人々は現実がこうあってほしいなという夢を物語に託したりする。シンデレラという話は貧しく冴えない少女が、魔法で身なりを整えたら実は美女で王子様に求婚されるというはなしだ。シンデレラと類似の民話、伝説の類は世界中にあるらしいが、別に昔話でなくても、自分もなにか奇跡が起きて条件さえ整えば、実はすごい才能があって他人から認められて幸せになれるんだという筋書きは、現代の日本のマンガやアニメでも王道といってもいい。


一方、そういう王道のストーリーと異なり、童話らしい奇跡は起こったんだか起こってないんだか分からず、現実によくあるような苦しみをただ綴ったような悲しい童話もある。たとえばマッチ売りの少女という有名な話がある。マッチを擦っている間だけ、美味しいごちそうの幻が見えたり、死んだはずの母親が現れるというはなしだ。この話は客観的に考えると、凍え死にかけた少女が死ぬ間際に幻覚をみただけじゃないかとも解釈できて、そうすると実は不思議な話でもなんでもないリアルな小説だ。昔話にもこういう文学的な作品はあるんだなあと思っていたら、マッチ売りの少女は言い伝えられた民話の類ではなく、アンデルセンが19世紀の半ばにつくった大人のための童話らしい。


さて、ハウルの動く城についての話だ。ハウルは僕は映画公開時に一度観て、いろいろ不満があったけど、まあまあ、面白かったなあと思った作品だ。わくわくする冒険は少なかったけど、宮崎駿がひさびさに正統派ファンタジーをつくってくれたことだけで満足しなきゃとか思ったことを覚えている。


つまり、去年、ハウルをDVDで観たのは映画以来の2回目で、だから、とても驚いた。こんないい映画だったのかとびっくりしたのだ。


あちこちのシーンで心が動かされて涙が溢れそうになった。さらに興味深いことに、その多くの箇所で、なぜ、ぼくが今、感動しているのか自分でもよくわからなかった。


これはいったいどういうことなんだろう、と考えてみたのだが、まず、第一のポイントは観るのが2回目だったので余計な期待をしてなかったことだ。最初にハウルを観たときの自分を思い返してみたら、ぼくはずっと最後の戦いが始まるのを待っていた。ハウルが敵と戦争を開始する決意を固めるのをいまかいまかと見守っていたのだ。そしたら、そういうカタルシスをもたらしてくれる戦闘シーンはまったくでないまま映画は終わってしまい、本当にがっかりしたのだ。だが、2回目にハウルをみたときには戦争シーンなんてほとんどないことは最初からわかっていたので、余計な期待はせず、素直に映画を観れたのだと思う。


そういえば去年、映画監督のHさんと酒席でご一緒する機会があって、そのときにHさんがハウルを批判していた話が面白かった。Hさんが文句をつけていたのは一点だけ、ハウルの城についている大砲のことで、なんで撃たないんだ、と怒っていた。登場した武器は最低一回は映画が終わるまでに使うべき、と主張していて、ああ、ぼくも気分的にはまさしくこんなかんじでハウルを観ていたなあ、世の中の多くのひともそうだったんだろうなあと思ったのだ。


宮崎駿は間違いなく、ハウルで戦争なんて描く気はハナからなかったのだろう。じゃあ、彼はなにをハウルで描こうとしたのか。


Hさんの話をきいた酒席にいた別の監督Aさんはハウルのことを、ソフィーがハウルの城に到着するまでが最高に素晴らしかった、と評した。ぼくも同じ意見だ。ハウルは全体的にすごく完成度の高い映画だが、特にハウルの城に到着するまでは完璧としかいいようがない。


ファンタジーとは現実には起こらない奇跡を描く。観客にとって起こって欲しい奇跡や起こると楽しそうだなと思う奇跡を描く。


でも本当は奇跡なんて起こらないなんてことをみんな知っているのだ。奇跡は現実の中ではなく、みんなの心の中に願いとして存在しているのだ。


ハウルの特に序盤で宮崎駿はそのことを残酷なまでに描写する。彼が表現したのは奇跡を起こって欲しいという主人公ソフィーの感情である。奇跡そのものは・・・空中散歩などは本当に名場面ではあるものの実はどうでもよくて、そういう奇跡が起こって欲しいと願う気持ちがどういうときにあらわれるのかを見事に表現している。だから、ぼくは涙がでそうになった。奇跡で救われているはずのソフィーを見て涙が溢れそうになったのだ。


ソフィーがハウルの城にたどり着くまでの物語は、実はソフィーの頭の中で夢見た幻にすぎないという解釈が可能だ。これは実は冒頭で書いたマッチ売りの少女と同じ構造を持っている。ソフィーに起こった奇跡はソフィー以外のまわりのひとには見えていないし関係ない。ソフィーには本当は奇跡なんておこっていなかったのだ。


じゃあ、本当のソフィーの物語はどうだったのか。街角でのハウルとの出会い、これはおそらく自分とは身分違いのかっこいい青年とすれちがってちょっと優しい言葉をかけられた、ただ、それだけの出来事だったのだろう。ちょっとした恋心を抱きながらも付き合えるワケがないと諦めながら、少女は年を重ね、やがて老婆になっていく。たぶん、生活に疲れた彼女にとって、若い日のちょっとしたこのエピソードは一生心の奥にしまっていた大切な思い出だったに違いない。映画では魔法で老婆にされたソフィーは山に向かう。なんのために山にいったのか?途中で馬車にのせてあげた夫婦は、親戚がいるから、とソフィーというソフィーの説明を訝しがる。もちろんその話はウソだということをぼくらは知っている。ソフィーにはこの家にはいられないといって黙って家をでていったのだ、あてなどあるはずがない。ソフィーは山に死にいったのだ。死を決意したソフィーの荷物は台所から持ち出した少しの食べ物だけで、お金は一銭もない。きっと、これは本当の話なのだ。いきなり90歳になる魔法なんてなかった。ただ、ふつうに年を取り老婆になったソフィーが居場所がなくて山に死ににいったという話なのだ。姥捨て山の物語だ。


姥捨て山で死をまつ年老いたソフィーはなにを考えていただろう。自分の人生がひょっとしたら変わったかもしれないかすかな可能性、若い日に街角で出会った青年のことで空想をしていたにちがいない。彼は魔法使いで実は自分のことを愛していて、いま、この寂しい山奥で運命の再会をするのだ。ハウルの動く城とはソフィーが死の寸前に夢想した幻覚の物語である。まさにマッチ売りの少女なのだ。


ハウルの動く城ではアンデルセンが書いた童話と異なって、悲劇的な結末は描かれない。ソフィーは冒険の末、ハウルと結ばれるだけでなく、新しい家族と手に入れ一緒に暮らすことになる。まさに絵に描いたような理想のハッピーエンドだ。


ぼくが本当にすごいと感動したのは最後の最後で唐突にかかしの魔法が解けて、隣の国の王子様にもどったときだ。なんだかんだいってファンタジーとしてすすんでいた映画が、いきなりおとぎ話の世界になったのだ。余計な説明も演出もなにもない。いきなりお姫様のキスでかかしにかけられた魔法がとけて王子様になる。おとぎ話の典型的なラストである。リアルに描かれた登場人物の心情も映画の世界観もぶちこわしにいきなり子供向けのお話のエンディングがくっついたのである。


そう、ハウルの動く城とはおとぎ話だったのだ。宮崎駿は人間の悲しみを描き、その中からこういう現実だったらいいなという願いをすくいあげてファンタジーの物語をつくった。しかし、その手法としては完全に現実とは別の世界をつくるのではなく、登場人物の心情がとてもリアルに描かれた文学のようなファンタジーをつくった。シンデレラではなくマッチ売りの少女をつくった。ただ、それではエンターテイメント作品にはならない。マッチ売りの少女の妄想の話はふくらんで長く続き、シンデレラのような話がうしろにくっついた。そして最後にやっぱりこれはうその話、おとぎ話だったんだよとけっして視聴者に絶望を与えないかっこいい形でつきつけて映画を終わらせたのである。おとぎ話であるとはっきり宣言することでハウルの美しい物語にこめられた世界はこうあってほしいという宮崎駿の願いが純粋な形で伝わったのだ。


これほど美しい物語をぼくは知らない。


ハウルがファンタジーとして異質なのは、登場人物の感情の描写のリアリズムでそこが文学的である所以だ。だいたいファンタジーとは世界の設定だけではなく、登場人物の性格設定までもがステレオタイプで荒唐無稽なものだ。


ここで宮崎駿のリアリズムについてぼくの考えを話したい。よく宮崎駿の特徴として描く絵が空間的に歪んでいるということをプロデューサーの鈴木敏夫は指摘する。遠近法では正しくないんだが注目してほしいものをより大きく描いたり、なにかの背後に隠れて見えないはずの風景をまわりこませて画面に描きこむ。それが実は人間の脳での情報の認識方法にはなじみやすくて気持ちいいのだと説明する。宮崎駿の絵は写真のように遠近法では正しくないが、人間の脳ではよりリアルに感じられるということだ。


だから、宮崎駿の絵は空間が歪んでいると鈴木敏夫はいうのだが、さらに付け加えれば、ぼくの意見では宮崎駿の映画の歪みは空間方向だけでなく時間方向にも及んでいると思う。宮崎駿は絵描きである以上にアニメーターなのだ。映像として観客の脳がどう感じるかというのをシミュレーションして、いらない情報は省き、必要な情報は強調しながら、映画の構成を考えているはずだ。一般にも宮崎駿はシナリオも脚本もない状態で、いきなり絵コンテから物語をつくりはじめるといわれているが、その理由はこのあたりにあると思っている。


宮崎駿の絵が実は歪んでいることに気づかないのと同じように、宮崎駿のつくる物語はストーリーに矛盾や説明不足がたくさんあって歪んでいるのに気づかれにくい構成になっているのだ。そして歪んでいるのに、よりリアルな物語に感じられるのだ。


これはちょうど夢と似ているのではないか。人間が夢の中で見ている映像とはどういうものか、多くの人は白黒の夢をみていて天然色の夢を見ているひとは割合的に少ないといわれる。おそらくは、天然色の夢を見ているひとというのも起きているときに視神経から飛び込んでいる映像ほどの情報量は脳内では再現できていないのではないかと思う。夢を見ている間、きっと人間は現実よりも不完全な映像を見ている。そしてそれが夢の中ではほとんど意識されないのは、もともと人間は起きているときも視覚情報を大幅に削減し抽象化して、脳内で扱っているからだろうに違いない。それでも夢の中では現実以上に恐怖を感じ、うれしかったり、悲しかったり、感情が揺れ動く。そういう夢を見ることがある。


宮崎駿のつくる映画は良質の夢なのだ。それがリアルじゃないアニメ、リアルじゃない物語で、なぜか現実よりもリアルな感情が呼び覚まされる理由だ。


ハウルの動く城、まだまだ書きたいことはたくさんあるが、見せたら長いと文句をいうひとがいるので、ここで筆を置く。


ぼくが、人生で出会った中で最高のファンタジー映画である。