人生とは何かについて考える時

時に人間というのは、苦しかったり、しんどかったり、めんどくさかったりするような選択をわざわざしたがる生き物だ。


ようするに一時の気の迷いというやつである。一時の迷いのはずが一生モノになったりすることもある。


まあ、だいたいは若い時代にそういう心が揺れ動く経験をするものだが、人間は年をくってもそれほど進歩はしないので大人でも気の迷いはある。大人のハシカとおなじく大人の気の迷いもタチが悪い。


ぼくの母が四国のお遍路参りをはじめたのは5年も前だろうか。当初は父と二人でまわっていたが、阿波国徳島県)、土佐国高知県)と半分過ぎたところで父が亡くなり、3年前からぼくが父の代わりについていくことになった。とはいっても、途中、母親の骨折とかがあり、40番札所の観自在寺からはじまるぼくと母親の巡礼の旅は3年前からほとんど進んでいない。現在、寺の数で云うと3つあとの明石寺だ。正直、このまま母が忘れてくれることを祈っていたが、ちゃっかり覚えていて、一昨日、ぼくはひさしぶりに四国まで駆り出された。


現代の日本人の気が迷ったときに自分に課す苦行としては、お遍路参りというのは最高クラスの難易度だと思う。ぼくは本当にいろいろとひどいと思った。そして、ふつうのひとはこのひどさをあまり経験することはないだろうから、そんなお遍路の旅がどれほどなのか書いてみようと思う。


人生を見つめ直すためにお遍路の旅にでた有名人として、まず、思いつくのは民主党菅直人だろう。彼のお遍路を下手なパフォーマンスだと笑う人は多いだろうが、そういうひとはいっぺん自分でお遍路をやってみるといい。本当に大変だから。パフォーマンスだとしても、途中で中断したままになっているとしても、半分以上もやりとげた彼はたいしたものだ。


お遍路をやるひとの人数は年間30万人とも50万人ともいわれる。ただ、そのほとんどがバスなどを使った観光ツアーや自動車でのお参りであり、昔ながらの徒歩でおこなう”歩き遍路”は1%ぐらいしかいない。


もちろん大変なのは歩き遍路であって、菅直人も僕の母もこっちだ。


全長1400キロメートルの行程を歩くにはだいたい慣れた人でも40日かかるという。まあ、定年後かニートならともかく40日も連続した休みはつくれないから、僕と母はだいたい3泊4日ぐらいで少しずつ歩くことにしている。今回は明石寺から大宝寺まで68キロメートルを歩くことが目標だ。まず、これを大変と思うかそうでないか?


3日4日といっても両端の2日は半日しか歩けないから、実質丸3日間で68キロメートル。つまり平均1日23キロメートル。慣れたひとならまったく楽勝だろう。ハーフマラソンと同じ距離だが、こっちは1日かけてあるけばいいのだ。時速4キロメートルだとすると6時間あるけばいいだけだ。お遍路をやったことないひとでもなんとなく頑張ればできそうに思うだろう。


まあ、なんであれ、だいたい頑張ればできると思いこむのは、頑張ったことのない人間に多い症状だ。


確かに1日目はできる可能性が高いだろうが、2日以降がしんどい。マメができてつぶれたり、筋肉痛で歩けなくなるのだ。


本当に努力をするひとは努力の限界は肉体的な限界によってもたらされることを知っている。努力しない人間は、ドラゴンボールの世界のように精神力でいくらでも努力できるはずだと思いこみがちだ。もちろんぼくは後者である。前回も前々回も先に歩けなくなったのは60を超えた母ではなく、息子のぼくのほうだった。今回も目標は達成できそうにない。


お遍路が苦行としてすごいとぼくが思うのは、まず、肉体的に1400キロメートルを歩くということが物量として大変なことともうひとつある。そのわりには、神秘的な体験がほとんど得られないことだ。


宗教的な意味合いもある苦行を人間がしたいと思うとき、自分を見つめ直したい気持ちとか、なにか気持ちをリフレッシュしてくれる神秘的な体験が得られるんじゃないかという期待があるはずだとぼくは思う。


ところがお遍路にはそんな甘い現実はほとんどない。だいたいお遍路というと四国の山道を杖をつきながら歩く姿を想像すると思うが、実際にはほとんどの行程はアスファルトで舗装された道路を歩くことになる。昔、街道として便利だった道は現代でもやはり便利でたいていは国道が走っているのだ。つまりその地方の基幹道路であるから、田舎であっても自動車の交通量はかなり多い。東京でもちょっと郊外にいくとありそうな町並みの中で自動車がびゅんびゅん行き交う道路の歩道をとぼとぼ歩くのが現実のお遍路の姿だ。国道でなければ一本裏の道だが、そこもやっぱり舗装されていて、東京の郊外の裏道といっしょだ。


なんでこんなことをわざわざ四国まできてやる意味があるのかと自問自答してしまう。そーそー、自問自答といえば、お遍路している間に人生のことをいろいろと思索したい人は多いだろう。でも、意外にそういう時間はほとんどない。お遍路の道というのが意外とわかりづらく注意していないとすぐに迷ってしまう。特に雰囲気の上では思索に最適に見える山道が最悪だ。気がつくと同じところをまわっていたり、逆方向に進んでいたりして油断できない。迷って日が暮れると遭難しかねないためちょっと命がけだ。雨とか降ると地面が濡れていて岩とか滑って注意して歩かないと危険だ。歩くのに真剣になって頭をつかわないといけないので、他のことを考えている余裕がない。たぶん、昔のひとのほうが頭を使って生きていたんだと思う。山賊だっていただろう。数字や文字をこねくりまわすことなんて頭の仕事のほんの一部だ。自然の中に生きていて、移動するにも真剣、食べものを見つけるのにも真剣、食べるにも命がけ、そういう生活が一番頭を使うはずだ。


結局、くだらない悩み事を考えることができるのは、この国道をもう何キロもまっすぐと歩き続けるしかない、そんなときぐらいなのだ。山道ではそんな暇はない。日本中でありふれている郊外の風景の中、アスファルトの道路をただただ歩く。そういうときにいろいろ考えるしかない。


母はお遍路の白装束はしない。ぼくも当然いやだから、ふつうの格好だ。だから、道路をあるく二人の姿はまったくもってふつうの光景になる。白装束をしない理由について、母親は、私には信仰心がないからだと他人に説明している。だから、唯一のこだわりが歩くことなんですと説明している。お寺の娘に生まれていて信仰心がないだの出鱈目に決まっているのだが、本当の理由はとくに聞いていない。ただ、歩き遍路にはたしかにこだわっていて、それもできるだけ国道は使わずにあまり白装束のお遍路も通らないような山道を選んで通るから、ついていくこっちは大変だ。


歩くときに母とぼくは無言の争いをする。どちらが左側を歩くかだ。母はすぐにぼくの左側で歩こうとする。道路の右を歩くとき、左は車道側なのでぼくが左にいこうとするのだが、気がつくと母が左にいる。70近くになっても母親は、まだ子供を守ろうとする。右か左かは別にしても一緒に並んで歩きたがる。雨でぬかるんだ山道を歩いているとき、ぼくが先頭にたって、できるだけ乾いた地面を選んで歩いていると、いつのまにか隣でぬかるみを母が歩いているから、どこを歩くかもいろいろと難しい。


お遍路をしているとき、ああ、お遍路をしているんだと実感するのは道にちょっとでも迷っていると、しばしば、どこからともなく近所の人が現れて、道を教えてくれることだ。通り過ぎるひともよく挨拶をしてくれる。女子中学生とかでもするから、きっと地元の学校で教えているのだろう。


こういう地元のひとたちにとって”お遍路さん”とはどういう存在なんだろうと考える。江戸時代だったら、旅人は外の世界の情報を伝えてくれるメディアだっただろう。でも、いまは逆に旅人のほうが世間の情報から隔離されていて物事を知らない。遍路宿で同じく遍路をしている有名人の噂話を母はよく聞くという。それこそ菅直人ショーケンとかだ。でも、それだって、情報の元はテレビや雑誌が半分以上だろう。


昔の時代は”お遍路さん”はメディアとして意味があった。お遍路さんになる側の人間にとっても今よりも危険な旅だったかもしれないが、関所があって、自由に住む場所を変えれなかった江戸時代には、お遍路で世の中をみてまわるというのは、一生一度の大冒険でありエンターテイメントだったに違いない。いまはどっちの意味も失われている。こんな時代に観光でなく、歩き遍路をやるというのはどういうことか?よほどの理由がないとこんなくだらないことはできない。願い事をかなえるためになら人間はこんな苦労をしてまで祈らない。とりかえしのつかないこと、どうにもならない思いを遍路に託しているのだろう。


別に1400キロメートルを歩ききったからと云って、政治家の歴史的評価が変わるわけじゃあるまいし、死を選んだ弟が生き返るわけでもない。そんなことはわかっている。いったいなんのためにこの平凡な道を歩き続けるのか。


今年あと2回来ようと母は云った。今年中に松山市まで終わらせたいと。早くしないと終わるまでに私が死んでしまうと笑う。ぼくはできれば未完のまま母の遍路は終わればいいと思っている。なかなか終わらせずにずっとこの退屈な母との旅が続けばいいと思っている。


ありふれた風景、痛む足をひきずりながら歩く毎日、ついに到達した節目のお寺がそれほど立派でも特別というわけでもないという現実。知らないけど、やがて到達する最後の88番目の寺もきっとたいしたことはないのだろう。でも、それでいいじゃないか。


人生だってそんなもんだ。いったいなにが違うというのか。