貧乏子沢山なWEBサービスという戦略
ネット業界のブログでよく見かけるのが、WEBサービスはひとりでつくる時代になる(たとえばこれ)とか、数うちゃ当たる的にWEBサービスを量産する戦略が可能性あるという主張だ。
はっきりいってそんなものにはビジネス的な成功の見込みがあるわけがないし、そもそも先行した成功例なんてものもないと思うのに、なぜ、みんながそういう主張をするのかというと、要するに他に方法が見つからないからだ。
つまりWEBサービスがあまりにも儲からないから、単純に掛け金を小さくして、人生や生活に影響を与えないようにしようという程度の理屈でしかない。一攫千金を狙うなら、万馬券に全財産を突っ込むよりは、毎月1万円ずつ宝くじを買った方がいいというのと同じぐらいの正論ではある。
だが、ギャンブルの場合ですら、およそ参加の敷居が低いものは、成功の期待値も低く設定されているものだ。競馬の場合はおよそ7割かえってくる配当金は、宝くじの場合は5割程度しかない。要するに、より胴元に搾取されているわけだ。
まして自由競争であるビジネスの場であれば、参加者が多い競争に飛び込むこと自体が、成功の確率を極端にさげる。リスク少なく少人数でWEBサービスをたくさんつくるというプロとアマチュアの垣根があいまいな競技の参加者なんて、多いに決まっているだろうから、そこでの勝率も割にあわないものになっているだろうことは容易に想像がつく。
そもそもこのギャンブルに「当たり」は存在するのだろうか?社会現象にまでなった「脳内メーカー」で開発元はいくら儲かったのか?たとえば書籍であれだけヒットしたのなら、数億円ぐらいの利益はあげれていただろう。バナーやアフィリエイトで稼げる金額なんて、たかが知れている。勝者ですら、個人の生活費としてはまあまあぐらいが関の山で、しかも参加者がふえていくにしたがって、それすらどんどん難しくなっていく。舞台をいま旬らしいiPhoneにかえたところで同じことがくりかえされるだけだろう。
そもそも、たくさんWEBサービスを量産するということはどういうことだろうか?それはプラットホームとしてのWEBサービスではなくコンテンツとして消費されるWEBサービスへの道だ。プラットホームとしてのWEBサービスはもはや個人でほりあてられる余地は残っていない。検索サイト、ECサイト、ブログ、SNS、動画、イラスト、ミニブログなどなど、ジャンルの数なんて、プレイヤーの数にくらべて圧倒的に少ない。
しかも、もうネットの発展も初期段階を終えて、今後、発見される新規ジャンルは、だれでも採掘できる地上に転がっているよりも地下に埋まっていることが増えていくだろう。ただしい鉱脈の場所を見つけ出しても、実際に掘り当てるためには、個人ではできないぐらい深くまで坑道を掘らなければならないケースが増えていくだろう。
これからのWEBサービスに必要なのは総合力だ。個人技ひしめく数多のWEBサービスの中から抜け出すためには、斬新で素敵なアイデアだけじゃ、足らなすぎる。アイデアなんて良くてあたりまえだ。駄目なアイデアがあまりにも世の中にあふれているからアイデアに価値があるように錯覚しがちだが、優れたアイデアですら、ありふれていることには変わりはない。
優れたアイデアがひとつあれば、そこをとことん追求し、さらに総合的な実行力が加わって、あとはどこまでの効率的な追加リソースをぶちこめるか。
そこでやっと現実的な成功の可能性がでてくる。
新しいプラットホームをつくるWEBサービスをこれから成功させるとは、そういう勝負だ。リスクを小さくするためにひとりでつくるとか、アイデアの数で勝負とか、そういうアプローチではプラットホームはとれない。
別にプラットホームをとることなんて最初から狙っていないというなら、それでいい。それはコンテンツとして消費されるWEBサービスの道だ。
個人のセンスと才能で勝負できる世界がそこにはできるかもしれない。個人の能力で勝負できるという意味においては、音楽や小説・マンガと似た世界ができるかもしれない。でもそれらとは違ってコンテンツ化されたWEBサービスはあまり儲かりそうにない。
そこの世界の胴元はgoogleとamazonだ。収入はすべてPVやユニークユーザに比例する世界だ。新しい音楽や斬新なWEBサービスもすべて2ちゃんねるのまとめサイトなんかと同じ土俵=コストで競争しなければいけない。
コストがかけられないからと、ひとりでつくる。確かに潰れないサービスができるかもしれない。
でも、ただ、それだけのことだ。その先になにがあるというのか。
そんなところで止まってはいけない。