物事の本質だったり世界の真理を理系的に考えてみた

 ネットで東浩紀氏の文庫本に中森明夫氏が書いたあとがきが面白いという書き込みがあったので読んでみた。そこでは東氏の先輩として柄谷行人さんが紹介されていて、要するに東浩紀柄谷行人の歩んだ道をなぞっているという指摘がされていて確かに面白かったのだが、じゃあ、柄谷行人とはどういうひとなのかと興味を持ち、わりあいに氏の最近の本である世界史の構造という本を序文だけ読んでみた。


 その本で柄谷氏が試みているのはどうやらこういうことらしい。マルクスは資本主義下での商品交換を元にした経済的下部構造の上に国家や民族のような上部構造が成立すると主張したが、商品交換以外にも贈与や略取のような交換様式も考慮にいれて経済的下部構造を考えることによって、上部構造である国家のみかけの自立性を仮定しなくても、世界が説明できるはずだという主張だ。


 氏の主張が正しいかどうかを判断するのは、ぼくなんかの素人の手に余るのだが、このマルクスの上部構造と下部構造の概念をどう解釈するのが正しいかという議論は、文系的な言説では非常によく見る光景である。


 文系のひとたちのこういう物事の本質を見定めようという真理への探究に対する態度を理系的に解釈するとどういうことだろうかと考えてみた。


 物事の本質というのはなにか?これはようするに世界というものが人間にとって複雑で情報が膨大すぎてよくわからないから、簡単に考えてみる、ということだ。つまり膨大な情報を整理して、ごく少ないキーとなる情報に置き換えて考えると頭がすっきりするということだ。なぜすっきりするかというと膨大な情報だと人間は理解できないけど、少ない情報に減らせば理解できるようになるからだ。うまく情報を減らせたとき、人間は物事の本質を掴んだ!とかいう気になる。


 そう考えると、物事の本質を追究するというのはうまいデータ圧縮アルゴリズムを見つけるというのに近い。このアナロジーをつかってちょっと人間の思考についてのモデルを考えてみた。


 人間の思考というはたらきを思い切り抽象化し、外部の世界からAバイトのデータをインプットし、そのデータを解釈した結果のBバイトのアウトプットをおこなうブラックボックスとする。


 できるだけBバイトを小さく出来れば物事の本質っぽくなるはずだ。


 例としてそう、なんでもいいんだけど、たとえば「世の中はしょせんカネだ」という命題を世界を理解する圧縮アルゴリズムとして考えてみよう。


 そうすると、このアナロジーが成立するための必要条件がはっきりとしてわかりやすい。


 「世の中はしょせんカネだ」というのが物事の本質であり世界の真理であるとしても、この圧縮アルゴリズムで扱えるデータ=世の中の出来事というのは、世界のごく一部の現象についてだけだということだ。


 ようするに文脈があり、物事の本質というのはある前提条件や制約条件の中でしか成立しないものであるということがひとつ。


 もうひとつ分かるのは、物事の本質というものは世の中の情報量の圧縮アルゴリズムとして考えると、ある一面の情報しか再現していない非可逆圧縮であるということだ。


 データ圧縮の方法としては可逆圧縮非可逆圧縮の2種類がある。ZIPでくれ、とかいう慣用句がネットにあるが、ZIP形式でファイルを圧縮した場合は可逆圧縮であり、解凍するとまったく同じ元のファイルが再現される。ところが音楽や動画などで使われるmp3や動画のMPEG形式のデータ圧縮は、とてもデータが小さくなるかわりに少し音質や画質が元よりも悪くなるのはご存じだろう。より高い圧縮をしてデータを小さくすればするほど元の音楽や映像が劣化する。


 そう考えると、世の中で物事の本質や世界の真理とかと呼ばれているものの大半は圧縮アルゴリズムと考えるとかなり出来の悪い精度の低いものばかりだということが分かる。冒頭の上部構造とか下部構造の議論もまあある程度の妥当性があるのだろうけども、音声の圧縮アルゴリズムとしたら、mp3なんかとは比べないものにならないほど元の音声の再現性は低い。昔の8ビットパソコンでビープ音で音楽を鳴らしてみたとかはちょっと古い例だが、他の例えだと、よくピアノで人間のセリフを弾いてみせるという芸があるが、「あー、ほんとだ、そういわれてみれば、そういう風に聞こえる!」ぐらいの再現性しかないものが物事の本質としてありがたがられているのが実態ではないか。


 別にそれが悪いといっているわけではない。人間が世の中を理解する能力というのはその程度が限界だということだろう。いま書いている記事だって、当然ながら、その限界を超えているものではない。人間が発見した物事の本質の中で、可逆圧縮といえるものがあるのかというと、抽象化された現実だけを扱えばいい論理学も含めた数学ぐらいじゃないかと思う。理系の学問といえども現実を扱うものは物理学とかですら精度の高めの非可逆圧縮でしかない。


 物事の本質を情報の非可逆圧縮アルゴリズムと捉えるアナロジーで分かることのひとつに、抽象度の高い=現実の再現性の低めの物事の本質に対してさらに抽象度の高い物事の本質みたいなものとらえようというはたらきを重ね合わせると、どんどん現実の再現性が悪くなっていくだろうことだ。写真をPhotoshopで加工する場合はRAW形式のデータをつかったほうが出来が良いことは常識だ。すでに圧縮のかかっているJPEGの写真を元に加工をすると、モアレがでやすくなったりして、汚くなる。加工するなら元のデータに近いものを使うほうがいい。


 ぼくが文系の文章でよく出会う高度に抽象化された概念にさらに抽象化された理屈を重ね合わせてそのまま空想の世界に飛び去っていくのならまだしも、現実に舞い戻ってきてこれが真理だと解説をするスタイルに生理的な違和感を感じるのもここらへんが原因だ。いかにそれが高度に階層化された緻密な論理構造をもっていたとしても、いや、むしろ、だからこそ、でてくる結論を怪しく感じる。


 もうひとつこのアナロジーを考えていて、思ったのは、ネットのひとびとが好む物事の真理というのは、現実の再現度が高い情報圧縮アルゴリズムというより、アルゴリズムそのものが単純なものだということだ。


 元々、人間が物事の真理を追い求めるのは現実が複雑で情報量が多すぎてわかりにくいからだ。だから、ものごとを簡単に理解しようと情報を減らそうとする。そこで、ふつうのひとは、現実の再現精度も高い複雑なアルゴリズムよりは、現精度は悪くても大胆に情報を大幅に圧縮してくれて、しかも簡単なアルゴリズムをより真理だとして好む。


 しかも、いったん真理だとされたものはその真理の現実の再現度の高さがどれほどのものなのかは無視されて一人歩きをすることが多い。
 

 とまあ、情報の圧縮アルゴリズムとして物事の本質とか世界の真理を考えると、しょせん、そういうのは圧縮しすぎて、精度の低くなった現実でしかないし、あんまり神秘性を感じて盲信するのは本当に危険だなあと思ったという話です。