どうでもいい話。パソコンの安定性についての話とかとか

最近、ひさしぶりにPC Building SImulaterとかいうクソゲーに嵌まった影響で、Windowsマシンを使い始めるようになった。いままでも一応、定期的に買い換えてはいたのだが、日常はほとんどMacBookで事足りていて、Windowsマシンの起動なんて、そろそろ最新ハードに買い換えたいという時に比較用に起動するぐらいだった。

 

ひさびさに使うとWindowsマシンも悪くない。アプリケーションが安定して動作するんだよね。まったく固まらない。そうそう。Macは昔から不安定だったし、ずいぶんMacも安定して動くようになったけど、まだまだ、Windowsのほうが安定なんだ。と感動した。

 

だいぶ使用頻度もあがって、ふとストレージがSSD1TBしかないことの気づいて、最近でた4TBのSSDを増設しようと思いついた。PCのパーツを買って拡張するなんて久しぶりだが、まあ、ケーブル2本つなぐだけだしと思って、ケースを開けてみた。PC Building Simulaterのリハビリのおかげでディスクのマウント方法もすぐに分かった。ただ、2つのコネクタを間違えた。小さいコネクタが当然、電源で、でかくてカスケード接続できるのが、ATAPIケーブルだと思ってしまったのだが、逆だった。それでAmazonの発注が2度手間になってしまったのだが、増設自体は簡単に済んだ。

 

フォーマットして4TBの増設はあっというまに終わり、楽勝じゃん、と思って数日使っていたのだが、安定だったWindowsマシンがフリーズしはじめた。

 

デリケートすぎるだろう、とびっくりしたが、まあ、自作PCなんてこんなもんだったよね。とだんだん思い出してきた。Windowsが安定だったという記憶はよく考えてみたら美化されていただけだった。

 

アプリまで含めた総合的な環境で考えると、Macよりも枯れていて安定な部分はもちろん多くあるが、OS自体の安定度はもはやOS Xのほうが上かもしれない。まあ、でも昔にくらべればWindowsMacのどっちも本当に安定して動くようになったよね。

 

ぼくがMacを使い始めたのはMac Classicからで、System 7がでるかでないかという時だった。そのまえのSystem 6.04とか?本当にクソ不安定だったが、System 7はわりと安定でなんとか耐えられるレベルだった。でも、それでも、たしかそのころハッカーが活躍するハリウッド映画で主人公がMacを使いまくるやつがあって、たしか、タイトルなんだっけなー、まあ、その2時間ぐらいの映画の中で、主人公のMacが一度もフリーズをしなかったことがネットで話題になって、あの映画にでてくるMacが欲しいと、みんなが書き込んでいたのが面白かったのを覚えている。でも、さらに昔のMacはもっと不安定で、漢字Talkとか、最悪だったと古参Macユーザーがいっていて、いまのMacより不安定なMacが存在していて、しかもそれに熱狂的なファンがついているという事実が信じられなかった。

 

あの当時は、ぼくはパソコンの未来を示しているに違いないMacの良さを分かろうと、我慢してMacを使い続けていた。

 

あの頃から比べると、ずいぶんとパソコンは安定した。当時は永遠に無理なんじゃないかとみんながうすうす思っていたパソコンの家電化が実現しているといってもいいだろう。

 

ただし、若干、ズルが入っていて、パソコンも家電化したけど、家電もパソコン化したので、家電のほうは不安定になった。パソコンが家電化したというのが、現在の不安定化した家電レベルになったということで、昔の家電ほどはいまでも安定して動作してはいない。

 

なぜ、こんなくだらないブログを書いているか。2つの理由がある。

 

明日、長野の大学で講演だか授業だかなんだかがあるので、軽井沢の家に前乗り?してきているのだ。まあ、松本市なので、軽井沢にきても、たいして都内から近くなっていないのだが、じつは明日の講演の準備を、まったくやってない。まあ、とりあえず軽井沢にこもって、一夜漬けで資料をでっちあげようとしたわけだ。しかも、さっき気づいたのだが、どうせ講義なんて90分ぐらいだろうから、半分ぐらい質疑応答にしてやろうと思っていたのだが、スケジュールを確認したら、講義は90分を2回連続でやるらしく、前半90分が講義で後半90分が質疑応答らしい。合計3時間!どうやって、埋めればいいんだ。話すネタあるのか。テーマひとつだけじゃ無理じゃん。いや、もちろんテーマひとつだけでも中身を充実させれば可能だけど、それには準備の時間が足らない。

 

絶望的な気持ちになっていたところ、気がついたら、ブログを書き始めていた。それがひとつめの理由だ。

 

ふたつの目の理由だが、思い起こせば、ここ数年、ほとんどブログを書いていない。そもそもネットをやっている時間が極端に減った。たまに思い出したようにネットに書いているときがあるが、そんなときには共通項がある。長めの海外出張したり、母親と船旅をしているときとか、つまり、自分ひとりになったときだ。

 

そういうときになにをするかというと、音楽を聞く。ふだんはもう音楽なんてほぼ聴かない。いや、聴いているかもしれないけど、だいたいアンパンマーチとかみんなのうたに始まり、子どもが好きなうたばっかりだ。最近、パプリカとか、嵐とか岡本真夜とか、ちょっとJPOPが入ってきた。幼稚園で踊るらしい。幼稚園の先生が好きな曲を選んでいるんだろう。

 

たまにひとりきりになったときは、ひさしぶりに自分が好きな音楽をエンドレスで聴くことが多い。妻によると、ぼくが好きな曲は不健康で病んでいる気がするので嫌いだそうだ。なので普段は聴けない。不健康で病んでいる曲とはどういう曲か、まあ、ようするに、ずっと聴いていると、どんどんメランコリックな気持ちになるような曲ということだろう。やがて、なんとなく忘れていたせつない気分になってたまらなくなり、ネットになにかを呟きたくなる。

 

ネットに書き込むことによって、ぼくは社会と接続しようとする。ぼくはネットに本当に救われた。

 

まあ、でも、家庭をもった自分にとっては、普段はもはやネットは必要としないらしい。

 

それでも、ひとりになったとき、さらに気が向いたときに思い出して書き込む、今のぼくにとってのネットとの付き合いかたはそういう存在だが、相変わらず、時々は救われているのだろう。あ、ネットサーフィンは結構いまでもやっているけどね。それは救われているというより、悪いクセなので辞めたい。

 

最近、ぼくの昔からのネットの友人や知り合いたちも炎上か、なんかに巻き込まれて、ネットから距離を置くひとが増えた。ネットに理想を見ていたひとほど、その傾向が強いように思う。

 

昔のネットと変わったと悲しんでいるひとも多そうだ。

 

でも、ネットサーフィンをして、若い世代も含めて、観察して思うのは、いまのほうがネットはたくさんの人間を救っているということだ。ぼくたち懐古主義のおっさんたちの好きだったネットよりも、いまのネットのほうが大勢の人間に居場所を与えて幸せにしている。

 

それは尊いことだと思うのだ。

 

ネットはたくさんの人間に居場所と自信を与えて救った。ネットを炎上させている、まったく話の通じない類のひとたちこそ、もっとも救われた人たちだろう。

 

まあ、炎上させられたひとにとっては、いい迷惑な話なのだけど、それでも彼らをネットから排除しようと思わないで欲しいし、できれば嫌いにはならないでほしいと思う。

 

なぜなら、もし神がいるとして、そして、その神とは道徳だかなんらかの能力で人間に点数をつけて上位の人間だけを救うような存在ではなく、すべての人間を駄目な人間も駄目なまま受け入れて救おうとする神だったとするならば、彼らこそ、もっとも世の中で救われるべきひとたちだったはずであり、そして実際、神ならぬネットで救われただろうひとたちだからだ。

 

別に哀れむ必要はない。それは傲慢だし、どうせ彼らはわりと幸せなはずだ。それに彼らをおだてる必要もないし、罵倒とか全然してあげていいと思う。ただ、存在を消そうとするのは駄目だ。

 

いま、なんとなくネット全体がそういう方向の結論に流れそうな雰囲気を感じていて、気になっている。

 

まあ、いいや。夜も更けてきた。

 

軽井沢は寒くて、既に氷点下だ。寒いのでさっきからウイスキーを飲んでいる。

 

そして当然のことながら、ブログなんか書いているので、明日の資料は1ページもできていない。つうか、もう今日じゃん!

 

がんばれネット。そして俺。ついでにみんな!

 

ぼくはいまでもネットを愛している。そんな夜。