ネット時代のコンテンツの文法

ネット時代にコンテンツ業界がどう対応するかは、映画、アニメ、ゲーム、音楽、書籍、マンガなど、いずれのコンテンツの世界であっても課題になっている。


課題というのはおもにどうやってネット時代に収益をあげるかをみんな悩んでいるわけだが、そもそもネット時代にはコンテンツのフォーマットそのものも見直す必要があるのではないか、こんなあたりまえのことをあたりまえにいってくれたのが大塚英志(敬称略)だ。


技術者であってもネットサービスの開発に携わるのであればマーケティング的な能力は問われるから、人文書を読むべきだと最近主張している僕だが、とりわけ大塚英志はおすすめの批評家だ。


批評家の書く本がビジネスに役に立つとして、その効用はふたつある。ひとつは世の中に起きている現象をどうやって理解すればいいかを整理できること。もうひとつは世の中で起きている現象をどうやってコントロールすればいいかのヒントをくれることである。多くの批評家はおもに前者であり、起きた出来事を整理して教えてくれるのが得意だ。しかし大塚英志の場合はたんなる批評にとどまらずにじゃあこれからどうやっていけばいいかの示唆が実用的なのでとても素晴らしい。これは彼が批評だけではなく、マンガの原作者などクリエイターとしての顔もあることと無縁ではないだろう。大塚英志はコンテンツとはそもそもなにかという幾分哲学的な問いに対してクリエイターの視点から解を教えてくれる希有な批評家だとぼくは思っている。あるコンテンツを批評するとして大塚英志の場合は工学的に解説をしてくれる。読書感想文的な要素がまったくないのが好ましい。


そういう大塚英志のたぶん最新の仕事だろう「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いていただろう」の序章の文章がとにかく素晴らしい。この本ははっきりいってタイトルで損をしている。このタイトルを見て読みたいと思う人間はかなり少ないのではないかと思う。大塚英志本の信者であるぼくですら、この本はスルーしようかと思って2日前まで読んでなかったぐらいだ。しかし、いちど読んでしまえば、このタイトルも大塚英志がいいたいことを見事にひとことでいいあらわした素晴らしいものに見えてくるから不思議だ。


どういうことか?
この本は電子書籍時代にマンガはどのような表現方法の進化がありえるか、また、進化しなければならないかを、そもそも大昔に”マンガというフォーマット”をつくった先人たちの過去の試行錯誤を紹介しながら解説しているのだ。そしてタイトルの手塚治虫はマンガというフォーマットをつくった過去の挑戦者たちの象徴なのである。


大塚英志がいうには、手塚治虫もデビュー当時は、お前の描いているやつはマンガじゃない、とか悪口をいわれたし、手塚自身でもいままでのマンガじゃないものを描いているんだと宣言しながら、新しいマンガの文法をつくっていった。なのにその後継者のコミック業界のひとたちが、電子書籍時代がやってきたというのに、新しいマンガの表現方法を開拓しようなんてせずに従来のマンガを守ることばかり考えている。それはおかしいんじゃないの?手塚治虫だったら、電子書籍にあった新しいマンガの文法を編み出そうと努力したんじゃないのと、そう「手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いていただろう」というタイトルで大塚英志は問いかけているのだ。


そのあたりの問題提起を序章で書いているのだが、その大塚英志の文章がとにかく面白い。主旨は上記のようなことなのだが、その説明の合間合間に、自分はアナログ人間だという不要なアピールがはいるのだ。自分の原稿は手書きだとか、ネットは見ないだとか、携帯電話やメールだって嫌いだとかいう話にはじまって、あげくのはてには今後は電子書籍とか流行るんだろうけど、ぼくは紙とともに滅んでいく旧世代の人間だし、一生かかっても読み切れない自宅の大量の書物に埋もれて暮らすのが好きなんだとかいいだして、電子コミックの時代の新しいマンガの表現方法というこの本のテーマはどっかへいってしまう。最終的に、ぼくはいいけど、きみたち若い人間まで電子書籍に後ろ向きなのはおかしいとか言いがかりをつけはじめて、やっと、この本のテーマに戻ってくるのだ。


まったくもって大塚英志は素晴らしい。別にアナログ人間だろうが電子コミックについて語って構わないと思うのだが、どうしても自分の生き方に論理的な一貫性を求める大塚英志の生真面目さと、自分の主張をそのまま書けばいいだけなのに、定期的になにかへの嫌みだか呪詛だかをひとくさり混ぜないと文章をすすめることができないというのがとても人間的で好ましい。むしろ本当に書きたいのはその嫌みのほうじゃないか、主題は嫌みを読んでもらうためにしょうがなくつけた演出じゃないかと想像してしまう。ちなみにぼくのブログはだいたいそのパターンで、本当に書きたいのはそのときの記事エントリの本筋とはほとんど関係ないしょうもないことで、それを無理矢理読ませるために本筋をつけている。だから大塚英志の文章にはとても共感を覚えてしまうのだ。


話がずれてしまった。(こういうときは、つまり、ぼくの書きたいことは終わったということだ)


ということで本題という名のおまけに戻る。なにか一見ためになりそうなことでも書いてみよう。


大塚英志がいうまでもなく、コンテンツのフォーマットは時代の進化とともに移り変わっていき、新しいコンテンツフォーマットには、新しいコンテンツフォーマットにふさわしいコンテンツの文法みたいなものが存在するものだ。ところがコンテンツ側の人間はだいたい保守的であたらしいフォーマット上でも新しいコンテンツの文法をつくりだすチャレンジは嫌がるのが常だ。コンテンツのデジタル化の際にデジタルらしい特徴をコンテンツに盛り込みたがるのはだいたいIT側の人間で、コンテンツ側はできるだけアナログの忠実な再現を望んできたのがこれまでの歴史だ。ところが、本来はデジタル化やネット化によって、コンテンツの表現できる範囲は広がっているはずなので、それでは潜在的なコンテンツの可能性を殺していることになる。


このことを例えると、そうだ、少し抽象的な説明をしてみるか。ちょっと前に宇野常寛の「リトルピープルの時代」の感想の記事をブログに書いたところ、だれからか、ぼくが文系の高度に抽象的な議論に慣れていないという批判コメントをいただいた。抽象的な議論というのは、大概、自分自身にも理解できているとは思えない寝言をいっているか、言葉が指し示す内容が一意に定まらないどうとでも解釈可能なポエムもどきを披露しているものだと信じていた僕には新鮮な批判だった。なるほど抽象的な議論が高級だと思っている人間が世の中にはいるらしい。ということで、今回のエントリでは、ちょっと文系ぽく高度に抽象的な議論に挑戦してみることにする。


あるひとつのコンテンツというものがN次元空間上の点集合で構成されていると考えると、コンテンツのマルチメディア展開とは、それぞれ決まった次元数をもついろいろなメディア空間へ、コンテンツの写像をつくることであるとみなしてもいいだろう。


なんか、書いててちょっと面白く思えてきたw


コンテンツの次元とはなんだろうか。たとえば文章とか言葉というものは一次元のコンテンツだ。絵画や書籍は二次元のコンテンツといっていいだろう。


三次元のコンテンツとはどんなのがあるだろうか。彫刻やフィギアなんかがそうだろう。しかし、時間も次元のひとつとして考えると二次元のコンテンツが時間軸方向に連続したものも三次元のコンテンツとも考えられる。そうすると映画やアニメは三次元だ。また、同様に考えると三次元の表現が連続する演劇なんかは四次元のコンテンツになる。また、映像についてもデバイス上は二次元+時間であっても実際には3Dでモデリングした世界を二次元に投影しているようなものは三次元+時間の四次元であると考えてもいいかもしれない。


現実の世界では時間は一方向に流れないので空間の次元のひとつとして等価に考えるのはやや抵抗があるが、コンテンツの場合は早送り巻き戻しなど、時間軸を自由に行き来することが可能なので、時間をひとつの次元として扱かうことは現実以上に正当性がある。


さて、時間軸のつぎに、コンピュータ上でデジタル化されたコンテンツというものもなにか次元数は増えるのだろうかということを考えてみる。


コンピュータ上でコンテンツをつくるときに従来のコンテンツと根本的に違う特徴はなにがあるだろうか?それはコンテンツの双方向性だ。ユーザの入力に応じてインタラクティブに反応するコンテンツをつくることができるのが、コンピュータをつかったコンテンツの最大の特徴だ。これは相互に移動可能な複数の時間軸がある世界をイメージすればいいだろう。条件分岐するインタラクティブムービーなどがもっとも単純な例だが、もっと複雑に別の時間軸の任意の時刻へジャンプしてもいいしループしてもいい。複数の時間軸が平面上にずらっとならんでいるのが双方向性をもったコンテンツの正体である。コンテンツを双方向にするということは、さらにそれによって一次元増えると考えていいだろう。


同様にネットのコンテンツというのも次元は増えるのか?増えるとしたらどれだけ増えるのかを考えてみよう。ネットのコンテンツというのはコンテンツを利用するひとが複数いるということである。コンテンツの自由度だけみるとコンテンツの次元数*利用人数=ネットコンテンツの次元数になりそうで、いやになるが、実際には複数人だろうが、配布するコンテンツは同じものだ。各ユーザの状態が異なっているだけの話だ。ネットコンテンツとは基本的には同一のコンテンツを複数のひとが異なる状態で利用していて相互作用しあっているものと定義すればいいだろう。コンテンツはネットワーク化されることによってさらに一次元増える。


つまりネットで現実的に可能となるコンテンツの最大の次元数は、3D+時間+双方向性+ネットワーク化=6である。ネットは六次元のメディア空間なのだ。


さて、そのなかでコンテンツをマルチメディア展開するということはどういうことだろうか?単純な例として書籍の場合で考えてみよう。文章というのは文字列としては一次元のデータだが、紙という二次元のメディアに写像されると、フォントを経由して二次元の画像データに変化される。だが、まあ、本質的な情報としては一次元の文字列のままだ。だが、これにレイアウトなんかがはいってくると二次元部分の情報が付加されてくる。図表や挿絵が追加されるとだんだん二次元の情報っぽくなってくる。コミックなんかになるともはや二次元の絵に一次元の文字列が従属して貼付けられいるだけだから、完全に二次元のデータになってしまう。また、高価そうに見せるために表紙を立派にしたり革製にしたりして背表紙なんかつけたりするとこんどは三次元的な置物としての価値が生まれてきたりする。これは過去に低次元のコンテンツが高次元のメディアに写像として実体化する時になにが起こるかを示唆してくれるよいサンプルだ。


ひとついえるのはメディアが何次元の空間だろうが、全部の次元を使い切らなくてもコンテンツは成立するという事実だ。挿絵や表紙は販促になるかもしれないがあくまでコンテンツにとっては付加的なものでしかなく、書籍にとっては文章という一次元データがあくまでコンテンツの本質的な価値である。ついでにいうと、ネット版NY Timesが記事についている写真が動画になるとかいう試みとかをやったりしていたが、同様にコンテンツのネット化においてはそんなのはプロモーションのひとつにはなってもコンテンツの本質的な価値を生み出すものではないと僕は思っている。だから新しいメディアで増える次元を利用して従来のコンテンツが進化するとしたら、まったく違うものが誕生するのだろう。そういう意味では書籍というメディアの場合は、絵本だったりコミックというものが新しいコンテンツとして誕生したといえる。


では、従来のコンテンツは新しい高次元のメディアでもなにもしなくてもいいのか?電子書籍だったら従来の書籍の単純な電子化ということでかまわないのかというとそれも違ってくる。次元は変わらなくても同じコンテンツであっても、違うメディアには従来とは違ったよりふさわしい表現形式が存在するはずだろうからだ。


新聞だったら、ネット版では動画とか音声をおまけで貼付けるのではなく、まずネットにあった文章とはなにかを模索して書き直せということだ。ネットニュースで必要とされる文体は紙の新聞とは間違いなく違うものになる。


コミックであれば書籍という物理的な媒体の制限により生まれた見開きとかコマ割とかの概念をいったん捨ててもいいんじゃないか、そうしたときに考えられる表現方法というのはなにがあるのだろうか?そもそもいま使われているマンガの文法とはだれがどのようにしてつくったものだったのかというのが最初に紹介した本で大塚英志が展開しているテーマだ。


このような視点はネット時代にコンテンツに関わるすべての人間が持つべきものだと僕は思う。そしてほとんどのコンテンツ業界のひとはこの問いから目を背けつづけているのだ。