理系だけど「リトルピープルの時代」を批判してみた

前回の続きだ。最後に書いたようにぼくが宇野常寛氏(以下敬称略)の新作「リトルピープルの時代」での疑問点は3つある。


(1) グローバル資本主義というシステムと小さなビッグブラザーである個人が一体になって新しい”壁”をつくっていると主張しているように本書は読み取れるが、その両者を区別せずにリトルピープルという言葉で扱うのは、本書の議論上では妥当とは思えない。


(2) (1)による混乱からの帰結として、拡張現実が新しい”壁”への対抗法という結論になってしまっているとぼくは考える。これはシステムが生み出す現実からの逃避をたんにいいかえているだけではないか?


(3) 本筋ではないと思うが、村上春樹への批判は想像力の欠如ではなく、倫理的にやってほしいという、これはぼくの個人的な希望である。


(1)についてだが、宇野常寛はだれしもが小さなビッグブラザー=リトルピープルとなるのが現代だといいつつ、しばしば”壁”としてのシステム自体に対してもリトルピープルという呼称を用いているようだ。どうもリトルピープルとは小さなビッグブラザーであるだけではリトルピープルではなく、グローバル資本主義つまり貨幣と情報のネットワークに”つながっている状態でいる”小さなビッグブラザーというニュアンスを宇野常寛は強調したいようだ。つまりリトルピープルは個人でもありシステムでもある。これは序章で壁とは個人の外側ではなく内側に存在するものだと述べられていることからも、リトルピープルの両義的な定義は意図的だろう。


確かに、現在の人間は貨幣と情報のネットワークにつながらずに生きることはほとんど不可能だ。また、貨幣と情報のネットワークも究極的にはひとりひとりの人間の関わりを素子とした集合体として成立していることも事実だ。だから、リトルピープルの時代の”壁”は外部の敵としては描けない。ぼくら自身が”壁”なんだ。ざっくりいうとそういう理屈を主張しているように見えるが、ぼくはやはり個人と敵にもなりうる”壁”とは、たとえ、個人がその”壁”の一部であったとしても分けて考えないとおかしなことになると思う。


考えてもほしいが、個人対その個人自身も含まれる集合という構造自体は人類の歴史が始まって以来の個人と社会の関係とそのまま同じ話だ。そして宇野氏のいうリトルピープルの時代とは、社会が非人間的なシステムから構成されて目に見えにくくなっているわけだから、個人と社会との関係で考えればこれほど個人と社会を別物とあつかうほうがふさわしい時代はない。そこであえていっしょくたに議論しようとするからいろいろとややこしいことになるのではないか。ビッグブラザー=国家に変わる悪の象徴としてシステムを持ってきた場合に、システムから必然的に生み出されるものもシステムの一部だというのは正論のようにみえるが、よくよく考えると論理が主客転倒してはいないか?


宇野常寛の定義するリトルピープルとはいったいなんなのか?たんなるちいさなビッグブラザーだというならあまり矛盾はおこらないが主張としてはすでにだれもがこれまでもいっている陳腐なものだ。現代の価値観はほんと多様化してますよね、のひとことですむ。やはり宇野常寛のリトルピープルというのは小さなビッグブラザーが社会にはりめぐらされたシステムの影響下にあるという特徴を重要視して、それがリトルピープルという定義にもシステムがふくまれているんだという意味をこめたいのであろう。そうであるから、リトルピープルの時代にシステムが必然的に生み出した悪として、9.11やオウム真理教地下鉄サリン事件がでてくるのだ。宇野氏の世界観ではシステムが生み出す悪と戦うリトルピープルの時代とはシステムの先兵みたいなリトルピープルと戦えばいいということになる。じゃあ、それだと世界的な金融危機や環境問題とかはどう説明するのか?システムもリトルピープルに含まれるという定義だからどっちもシステムの悪ということで問題ないという解釈なのかな?いや、でも、それじゃ定義が広すぎるだろう。やっぱりこのふたつは全然性質の違う別の問題として区別して扱うべきものだ。


ちなみに、ぼくの見解では9.11やオウム真理教の原因は、ビッグブラザーでもリトルピープルでもどっちでもいいが、とどのつまりは人間が起こした事件である。人格を持たないシステムが起こした事件ではない。リトルピープルの時代はむしろ個々の人間はもちろんこと、大きな物語を用いてすら、もはや人間には全体のシステムをコントロールすることが難しくなってきた時代だと考えるべきだと思う。システムが人間の手を離れて自律的に進化しはじめている時代なのだ。9.11やオウム真理教は倫理的な是非はひとまずおいといて、歴史の主導権をシステムに奪われはじめた人間側からの必死の抵抗だと位置づけてもいいぐらいだと思う。


(2)であるが、上の議論ともつながるが、自分のまわりだけを見つめて、そこの世界を豊かにしていくというのを、壁へ対抗する想像力と位置づけるのはいろいろ矛盾しているんじゃないかということだ。それってたんに現実を受け入れてあきらめているだけじゃないか?ようするにシステムの存在については受け入れて抵抗しない。そして自分もシステムのパーツであるとしてシステムにコミットするわけだ。しかし、それを宇野氏は壁への抵抗をあきらめたこととはみなしていない。上述したようにシステムとリトルピープルは一体であるとみなしているので、他のリトルピープルとの干渉の中で壁へは抵抗できるということにしているからだが、これは欺瞞ではないか?


思うに社会を支配するシステムを自分には関係ないとものと、とりあえずおいといて自分のまわりだけしか認識しない生き方というのはなにもリトルピープルの時代と名付けなくても日本ではむしろ江戸時代からつづく本来の生き方ではないかと思う。ようするに「お上」という概念ってそういうことではないのかと思う。「お上」は別世界と認識して日々の日常を生きることに集中する。それだったら、まさしくただの本書で村上春樹がいうところのデタッチメントとしての態度だ。その日常を仮想現実化して充実させる方向へつきつめれば、お上へ対抗したことにはたしてなるのか?お上はお上、うちらはうちらで楽しくやる。楽しんだが勝ち。主張したいのはそういうことなのか?


(3)は、上のふたつにくらべればどうでもいい話だが、絶対的な正義のない世の中において、主人公がデタッチントなんだかニヒリズムなんだかを貫きながらも、それでも正義にコミットメントする方法を模索した村上春樹の試みについて宇野氏は責任転嫁モデルと評している。夢の中で殺した相手を、ヒロインが現実でかわりに手を汚して殺してくれるというプロットってなんなんだと、ぼくも思ったから、とても妥当な命名だと思う。ついでに倫理的な批判ではないと何度も宇野氏は主張しているのだが、村上春樹はナルシスズムに溢れた主人公になぜかヒロインが勝手に惚れてくれて無条件の承認を与えてくれるという設定を多用することに関して、レイプファンタジー構造というどうみても倫理的に批判しているとしか思えない名前で呼んでいる。また、ライトノベルとかにもよくある構造だということも同時に指摘している。


なににもかかわらず、倫理的な問題で批判するのになんの意味があるのか、そんなことよりも想像力が足らないことのほうが問題なのである、として批判しているんだが、いや、むしろそこは倫理的に批判しろよと思った。だって、自分勝手な主人公がなにもしていないのに、なぜか女の子がよってきてやさしいやさしいとかいって誉めるって、ようするにライトノベルとか深夜アニメに多用されている設定の原形を村上春樹は何十年も前からやっていたってことじゃん。


村上春樹・・・おまえか、そもそもの元凶は・・・、とぼくは思った。(タグ:おまわりさんこっちです)


あんなひどい設定をよく堂々とみんな使うなと思っていたが、広義の純文学のジャンルにも分類されている大ベストセラー作家がつかっているんじゃ、しょうがない。みんな真似するわ。そして、なにもしなくても勝手に女の子がよってくるんだから、レイプファンタジーというよりは和姦ファンタジーとでも呼んで非難したほうが適切なんじゃないかと思った。まあ、これは本筋とは関係ないどうでもいい文句だ。本書中にも引用されていたが、実はぼくがしらないだけでいままで、いろんなひとがさんざん指摘してきたことなんだろう。きっと。でも、とりあえずぼくはしらなかったので、村上春樹ライトノベルや深夜アニメに与えた悪影響というのは相当あるんじゃないかと思ったし、そのあたりのことをもっと知りたいと思った。




最後にぼくが主張したいことを書くと、非人格的に自律進化をつづけるシステム、とりあえずは貨幣と情報のネットワークとしてのグローバル資本主義ということにして、それとどう人間が向き合うべきかというのが、リトルピープルの時代の人類のテーマなんだと思う。そこでは、自律進化するシステムが今後どういうふうになっていき人間にどういう影響を及ぼすかを研究し分析することが学問の本筋じゃないかと思う。人間の文化が現在の環境でどうなるっているかの分析ぐらいなら、まだ成立するかもしれないが、それだったら分析にとどまるべきで、その結果を肯定して、これから人間の生きる道の指針はこれだという結論にもっていくのは根本的に間違っていると思う。


それよりもぼくがこの本を読んで気になったのは、人間が貨幣と情報のネットワークとの直接対峙を避けて拡張現実のほうへいったとしてその舞台となるネットとは、いまいちばん自律進化したシステムが大量発生している現場だ。今後の人間社会にしろ文化を論じるときシステムやネットをブラックボックスではなく、きちんと理解して議論することが圧倒的にいまの日本に足らないのではないかと僕は思う。


そしてもうひとつだけいおう。この本が3.11の震災後の最初の言論の書であるとするのであれば、3.11とは社会を支配する非人格的なシステムが突然崩壊することもありうるということを示したイベントであると定義できると思う。宇野氏がビックブラザー解体時の80年代後半からブームとなったと指摘した世界終末後を描いたファンタジーの物語が現実味をおびはじめたということだ。システム自体の崩壊の危機をうっすらとでもひとびとが予感しはじめた震災後のひとびとの想像力の結論が仮想現実への逃避ということで本当でいいのか、と思うのだ。