理系でも分かる!宇野常寛氏の新刊を読んでみた

最近、理系も人文系の本を読もう運動を提唱している僕ですが、とはいっても自分自身もここ数年で大塚英志氏と東浩紀氏の本の何冊かをちょっと読んだというぐらいだから、語る資格は本来ない。


とはいえ似た境遇にある理系的な人間の人文書アレルギーを多少は解消する助けになることは書けるかもしれないと思い、最近、話題になっているらしい宇野常寛氏(以下敬称略)の新刊「リトル・ピープルの時代」の感想などを理系人間的に試みてみたい。


最初に断っておくが、この本は数年前の僕だと読めなかった類のものだ。しかし、慣れたのか、いまはなんとなく内容が理解できる気がする。実はこの本は献本されたらしく、ある朝、ひさしぶりに会社に来たら机の上に置いてあった。筆者なのか出版社なのかわからないが、僕なんかに読ませてどうしようというのか。だいたい、貰わなくても自分で買うつもりだったから売上げを一冊減らしていることになる。申し訳ないから裁断用にもう一冊買うことにしよう。


さて、内容を紹介する前に著者の宇野常寛とはどういうひとか知っておいたほうがいいだろうから、ぼくの断片的な知識で説明する。宇野常寛は批評家で年齢は32歳と若い。どれくらい若いかというと、日本の若手批評家の代表格である東浩紀が40歳だから、それよりも若い世代の批評家だということになる。彼の以前の作品は読んだことはないのだが、ぼくでも名前だけ知っている代表作はAZM48という東浩紀周辺の人間が総出演するらしいパロディ小説だ。ネーミングを聞いただけでも内輪受けしかしなさそうな悪ふざけだが、東浩紀本人も出演するショートムービーも制作されたから、東浩紀も喜んでやっているのかと思いきや、これが原因で宇野常寛東浩紀の怒りを買い破門されたらしい。


・・・理系人間はこんなどうでもいいエピソードを聞かされると、もはや、真面目に彼の論考など読みたくなくなるかもしれないが、まあまあまあ、理系の天才のほうがよっぽどキチガイ度が高いひとが多いことを思いだそう。この一見くだらなそうなエピソードも彼の天才性を暗示するものかもしれない。


■ この本のテーマ


とりあえずは著者の素性も完全に理解できたところで、この本のテーマというのをひとことで僕がいいきってみせよう。それは、


「ぼくらの前にたちはだかる新しい”壁”への”想像力”をどう持つべきか」


ということだ。


理系にはちょっと抽象的すぎる?この文はこの本中の表現をできるだけ使いながらぼくが書いたものだ。人文系の評論はすぐに一般名詞を専門用語化する傾向がある。しかも、その本だけでしか通用しない専門用語をすぐにつくっちゃうのだ。”壁_temp”とか、”想像力_temp”とかいう名前にしてくれればわかりやすいのだが、我慢して慣れてみよう。"壁"と"想像力"とはそれぞれどういう意味で使っている言葉だろうか?


まず”壁”について説明しようか。


”壁”とはぼくらの運命をぼくらの意志と関係なく決定してしまう力を持つ巨大な存在を象徴した言葉だ。昔だったら、そういう”壁”の典型は日本という国家だったりした。現在では国家よりも上位の存在としてグローバル資本主義というものができていて、それが国家に変わる新しい”壁”になっている、というふうにまずは理解してもらえばいいだろう。


次に”想像力”であるが、まあ文字通り想像力という意味だ。とにかく宇野常寛といえば”想像力”であり、”想像力”とかもってまわったいいかたをしていれば宇野常寛だととりあえず思っておけばいい。宇野常寛にとって想像力を持つというのはすごく大事なテーマで、ようするにいろいろな世の中の新しい概念にたいしてきちんと適切なイメージを持ちましょうということだとぐらいに解釈しよう。つまり、この場合は「”壁”というものをどうイメージすればいいのか?」というだけの意味だ。


さて、では”壁”というものは、どうイメージすればいいと宇野常寛はいっているのだろう?まずは簡単な昔の”壁”について説明しよう。昔の”壁”とは国家とかのことだった。ジョージ・オーウェルの有名な小説”1984”では独裁国家を”ビッグブラザー”として擬人化して扱っていた。そう昔のタイプの”壁”の大きな特徴は擬人化できることだ。ちなみに1984にちなんで宇野常寛はそういう擬人化できる旧来型の”壁”を”ビッグブラザー”と呼んでいる。


ここで擬人化できるということはどういうことかを考えてみたい。擬人化できるということはみんなで共通のイメージを共有できる、しやすいということだ。たとえば日本という国を擬人化して考えた場合に日本さんという疑似人格がなにを目指していたり、なにを正義だと思っているかということを、国民が共有することができるということだ。この共有されるイメージのことを共同幻想と呼んだり”大きな物語”と呼んだりする。大きな物語というのは詩的な表現に見えるが、これも専門用語だ。これはあちこちで使われる汎用の専門用語なので、覚えておいても損はない。


そして一方では擬人化できない”壁”も存在する。というか、近年はそっちの”壁”が主流だというのである。擬人化できない壁とはグローバル資本主義とか呼ばれる貨幣と情報のネットワークのようなものだ。国家なんかとちがって、こういうシステムはぼくらをとりまく環境のようなもので、深く世界中にはりめぐらされている。それを敵だと思おうとしても、自分自身も貨幣と情報のネットワークの一部になっているから、自分の内部に敵がいるようなものでとらえどころがない。こういう非人間的で無機質なシステムが新しい”壁”となって、従来の人格をもつと仮定できた国家とかの上位構造になっているというのだ。


ここで理系のオタクは、グローバル資本主義だろうが、なんだろうが、世の中のあらゆるものは萌えキャラに擬人化可能であるという独特の理論をふりかざして異をとなえるかもしれないが、議論がまったく進まなくなるので無視をすることにする。


で、だいぶ時間がかかったが、そろそろ宇野常寛のこの本で書こうとした目標がなんとなくわかってきたはずだ。


簡単に超訳すると、昔だったら例えば、擬人化した日本という国を敵ビッグブラザーであると決めつけて、学生運動したりしてそれと戦えばよかったが、現代の敵はいったいなんなのかはっきりしない。この世の中はどういうふうに構造になっていて敵はどんなものだと想像すればいいのか、わかりやすいモデルを私が提示してあげましょう、というのが、宇野常寛のこの本でのテーマなのである。


筆者がなにを書こうとしたかの説明だけでめちゃくちゃ長くなってしまった。こんな調子で、この本のあらすじを説明するのにどれだけかかるか不安になったひともいるかもしれないが、安心されたい。理系の人間にとって人文系の本を読もうとした場合に、一番、たいへんで苦痛なのは、この作者はなにをいいたいのかを理解するところまでのハードルだ。一番、たいへんな部分はもう終わったのである。目的と用語のいくつかさえ把握すれば、いっていることはさほど難しくない。理系の論理的な能力があれば十分以上に理解できるはずだ。次はどのようにして宇野常寛がそのテーマを実現しようとしたかについて説明する。


■ テーマの実現方法


宇野常寛が本書で提唱したのは、「リトルピープル」という新しい概念である。リトルピープルはさっき紹介したオーウェルの有名な小説1984にでてくる敵であるビッグブラザーをもじったものであるというのはみればわかると思う。なんか、ベンサムの有名な「最大多数の最大幸福」に対して「最小不幸社会」という概念を提唱した菅総理を思い出して、だいじょうぶか宇野常寛と心配になるところだが、このことばをつくったのは実は宇野常寛ではない。村上春樹だ。


じつは上述の新しい”壁”との対決が必要だみたいテーマをいったのは村上春樹で、宇野常寛村上春樹は失敗したみたいだから、かわりに僕が説明してあげましょう、というのがこの本の書かれ方なのだ。リトルピープルは村上春樹の最新作1Q84に登場する悪い敵の名前だ。1Q84は、もちろんオーウェルの1984の題名をもじったタイトルで、村上春樹はそこでビッグブラザーに変わる新しい現代の敵はこんなやつだーというぐらいの気持ちでリトルピープルというのをつくったのだろう。宇野常寛はそのリトルピープルという名前を借りて、いやいや村上春樹さん、あなたの書いているリトルピープルのイメージは間違っています。それはこんなやつのはずではありませんか?ということで本書「リトルピープルの時代」というのを書いたのだ。


宇野常寛が主張するよりリトルピープル的なリトルピープルとは仮面ライダーである。また、ビッグブラザーとはウルトラマンのことだとついでにいう。このあたりの比喩と例証はかなり面白く説得力もあるのでぜひ本書の第2章を読んで欲しい。ここでは宇野常寛が構築しようとしたビッグブラザー vs.リトルピープルの世界観だけ紹介しよう。


まず、宇野常寛が提唱する時代区分について説明すると、1968年以前の日本を「ビッグブラザーの時代」と定義し、1968年から1995年までを「ビッグブラザーの解体期」、1995年から現在にいたるまでを「リトルピープルの時代」と位置づけている。ビッグブラザーの時代とは人々が「大きな物語」を信じていた時代だ。この場合は日本とか言う国家だったり、共産主義とか資本主義とかいうイデオロギーだったりを指すと思えばいい。ビッグブラザーの時代とは、国民の多くが日本という国のことを自分の問題であるかのように感情移入していた時代であり、また、学生運動のように、理想の社会や正義があると信じて行動していた個人がたくさんいた時代だというような理解でいいだろう。ビッグブラザーの解体期とはひとびとがそういう共通の正義に失望し、信じられなくなった時代だ。そしてリトルピープルの時代とは個人のひとりひとりが小さなビッグブラザー=リトルピープルとなってお互いに干渉し合う時代だと考えようというのが宇野常寛の提案だ。


そして村上春樹氏の40年間の著作とウルトラマン仮面ライダーの40年間を重ねてふりかえりながらこれらの時代を考察するというスタイルをこの本はとっている。だいたい1968年ぐらいからビッグブラザーの解体期がはじまったのだろうと仮定しているのだが、そこでなにがおこったかというと、「大きな物語」が虚構の世界への逃避したということを指摘している。現実の世界にある国家や正義とかいうのが信じられなくなったひとびとは虚構の世界にそれを求めたという。だからガンダムなどに代表される架空の世界で架空のひとびとが国家や正義のために戦う物語をひとびとは支持した。そしてその架空の世界の「大きな物語」すら信じられなくなったのが「リトルピープルの時代」だというのだ。転換期の事件としては1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件をあげている。これは虚構の世界で生き延びてきた「大きな物語」が、現実に(悪い形で)飛び出してきたものだと考えられるからだ。もはや虚構の世界ですら「大きな物語」を信じられなくなり、「リトルピープルの時代」がはじまったのだという。そしてリトルピープルの時代を象徴する事件としては、9.11テロ事件とそれに続く米国のイラク戦争を挙げて、世の中に絶対の正義などなく複数の正義があって争っているのがいまの時代なのだというのが、宇野常寛がリトルピープルという概念を用いて説明しようとした世界観だ。


ここで宇野常寛のリトルピープルという概念がどういうものなのか、もうすこし説明しよう。宇野常寛のいうリトルピープルはたんにビッグブラザーが小さく個人レベルまでたくさんに分裂しただけというようなものともちょっと違うようだ。リトルピープルは新しい”壁”の象徴でもあるということは、グローバル資本主義=貨幣と情報のネットワークをその中に含まれている。つまりちいさなビッグブラザー的なリトルピープルというのは貨幣と情報のネットワークにつながっていて、さらにはそのネットワークの一部分でもあるという意味まで含んでいる。宇野常寛のいうリトルピープルはその一部分であるちいさなビッグブラザーである個人を指すこともあれば、”壁”そのものをさすこともあるのはそういう理解でないと説明がつかない。リトルピープルは個人でありながらシステムの一部であるという両方の状態をあわせもった意味として使われている。ちょっとややこしいが、量子力学みたいなもんなのかなと思えば理解は可能だろう。


■ 宇野常寛の結論


さて、これで、ほとんど、この本のだいたいの枠組みは説明した。これらを前提として、結局、宇野常寛はなにを主張しているのだろか?おおきく3つあるだろう。


ひとつは村上春樹論についてだ。宇野常寛村上春樹がかくも大勢のひとに支持され、とりわけ海外でも評価が高い根源的な理由をビッグブラザーの解体期において、すでにリトルピープルの時代を先取りした想像力でもって小説を書いていたことをあげている。そしてその先進的な想像力はいまや時代においつかれてしまったということを主張している。これが第1章だ。
もうひとつは仮面ライダー村上春樹が到達できなかった想像力を発揮していると具体例をあげて論証している。これは第2章になる。
そして第3章の結論として、リトルピープルの時代とは人間の内面を深くほりさげていくのが”壁”と対決していくための方向であり、そのためには虚構の世界を現実の世界とは別につくるのではなく、虚構の世界を現実の世界に重ねて現実の世界を豊かにしていく拡張現実にこそ未来があり、現にそうなりつつあるとしている。(拡張現実の例としてはネットによる2次創作やアニメの舞台の土地への聖地巡礼などの現象をあげているが、詳しくは本書を読んでほしい)


・・・・・・・・


さて、以上でぼくの理解した「リトルピープルの時代」の概要の説明を終わる。理系の人間や、自称頭の良くない永井美智子女史でも理解できるようにだいぶかみくだいたつもりだが、どうだろうか?興味をもっていただければ幸いだ。


さて、長くなったのでいったんここまで終わることにする。
次回はこの本で僕が思った疑問点を書こうと思う。疑問点はつぎの3つだ。


(1) グローバル資本主義というシステムと小さなビッグブラザーである個人が一体になって新しい”壁”をつくっていると主張しているように本書は読み取れるが、その両者を区別せずにリトルピープルという言葉で扱うのは、本書の議論上では妥当とは思えない。


(2) (1)による混乱からの帰結として、拡張現実が新しい”壁”への対抗法という結論になってしまっているとぼくは考える。これはシステムが生み出す現実からの逃避をたんにいいかえているだけではないか?


(3) 本筋ではないと思うが、村上春樹への批判は想像力の欠如ではなく、倫理的にやってほしいという、これはぼくの個人的な希望である。


以上


(次回へつづく)

いま大学生だったら、どういう人生を選ぶか?

人間とは悲しいもので自分こそが人生で困難な状況に置かれているひとほど親身に他人の世話をしたりするものだ。遠く日本を離れた異国の地で自分の婚活をどうしようと思い悩みながらネットサーフィンしていたら、自分の悩みより就活どうしようと苦悩する日本の若者の人生に横から口を挟んで茶々いれることのほうが重要な気がしてきた。崇高な自己犠牲の精神がふつふつと沸き起こってきたのだ。


というわけで、自分がいま就活をしている、あるいは数年後就活をしなければならないとしたら、どうするかというのを考えてみた。しかし、いまの就活はぼくの頃よりもずいぶんと難しい。なにを基準に考えていいかがはっきりしないのだ。大企業にいってもつぶれそうな気がするし、ベンチャーベンチャーで信用ならないし、唯一の安全パイに見える公務員すら、国も地方も財政破綻目前なのだから、どうなるかまったく安心ならない。ようするに日本全体がいまやばいかんじなので、どこいってもやばさから逃れられる気がしないというのが、現実なのだ。うわーどこにいけば安心かまったくアドバイスできないわ、俺が就活してたとしてもまったく読めねえ。しいて一番安全そうな職業を考えると百姓か、漁師なんじゃないかなあ。


いや、まったく安全な就職なんてほぼ見当たらないわ。就職はただの1ステップだという前提に人生をいろいろ考えたほうがよさそうだ。なので、もっと抽象的で、就活生にとっては一般的な命題をいくつか考えてみよう。


・ (選べるひとの場合)大企業とベンチャーはどちらがいいか?


まあ、一般的には大企業だろうがベンチャーだろうが会社によるよという答えなんだろうし、それはある程度正しい。が、もし、ぼくだったら、大企業は選択肢にははいらないように思う。それはなんだかんだいってやっぱり大企業には優秀な学生がいくからだ。歴史をみても学生の就職人気企業ランキング上位はつねにそのあと衰退しているので、学生の企業を見る目のなさは統計的にも明らかだ。競争率が高いわりには将来性も期待できないところを選ぶ理由はない。同期も優秀だし、上司も優秀なのが上につっかえている。そこで這い上がっていくのは大変だ。もし、大企業で選ぶとしたら、外資系やちょっとブラック臭のするけれども勢いのある企業、ようするに人材の流動性が高い派手目なところだろう。業績はいいんだけど、ひとがたくさんはいってたくさんやめるところだ。
ひるがえってベンチャー企業の場合はどうか?ベンチャーの場合はそもそも人材の流動性が高い。2年ぐらいで全社員がいれかわるところもざらだ。にもかかわらずベンチャーベンチャーで選ぶのが難しい。ほとんどがクソ企業だからだ。正解よりも地雷のほうが多いクジをひくことになる。やっぱり将来性ありそうな業種で、ある程度ビジネスも成功しているところを選ぶという大企業指向の強い人間の発想みたいな選択になってしまう。
なんか、会社の選び方については歯切れの悪いアドバイスになるのだが、要するにぼくもそれほどは正しく判断できる気がしないというのが結論だ。つまり会社の選び方はそれほど重要ではないというか失敗する可能性が高い。だったら就職先選びはどうせ失敗すると決めつけておいて、そのつぎに転職しやすいかどうかを優先して考えた方がいい。そうなると、会社を辞めたあと自分に残るものを最大化するのが正しいだろう。なにが自分に残るのか?人脈とキャリアと能力の3つだ。ちなみに転職時の優先度もこの順番になる。能力を高めることが一番大事な基本じゃないかと思うひとがいるだろうが、能力は他人に認められてはじめて発揮するチャンスが与えられる。能力なんてあってあたりまえ。むしろ能力の多少の優劣よりも人脈とかキャリアが転職のときには優先される。で、キャリアのほうだが、これが、XX社でどういう仕事をしていたか、という事実だけしかどうせ評価の対象にならなくて、中身は判断されない。だから、結局は人脈が転職の運命を決めるもっとも重要な要素になる。
転職の王道は紹介なのだ。そういう手段のない人間が中途採用に応募したり、人材紹介会社に登録するということだ。キャリアと能力は自分の持つ人脈に評価してもらうための手段として大事なのだ。そして自分の人脈なんて最初は就職した会社でつくるしかないのだから、最初の転職先は同僚や先輩の転職先ということになる。人材の流動性が高い会社で就職したほうがいいというのはそういう意味だ。
だから大企業かベンチャーかを問わず、入社してすぐにある程度の仕事をさせてもらえる会社で、ひとの入れ替わりは多い会社というのが、最初の就職の際の基本じゃないかと思う。
ただ、ぼくだったらどうするかというと、人脈つくるのめんどくさいというか人付き合い苦手で要領悪いから自信ないので、そっちでの勝負はしないかなあ。で、優秀な人間がいそうな人気企業も避ける。すると業界2番手、3番手とか中堅どころで選ぶことになるが、そんな位置でブラックやっている企業なんて、ろくでもないことが多いから、人材の流動性もあまりないぬるい会社を選ぶと思う。そこで仕事のチャンスだけもらってキャリアに関しては抜きんでた実績を上げるという難しい道に挑戦するというかんじかなあ。


・ (選べるひとの場合)いい待遇とやりたい仕事とどちらを大事にすべきか?


この問題は仕事とプライベートとどちらが大事かという問題につながる。ところが金銭面に関しては金を稼ぐための出世コースを選んだとするとプライベートのための金銭を選ぶためにプライベートを犠牲にするという矛盾が発生する。かといってプライベートを優先して出世をあきらめてもリストラの対象になって職を失えば結局はプライベートも崩壊してしまう。ぼくはやはりプライベートと仕事はできるだけ一致させる方が結局は幸せになれるんじゃないかと思う。そうすると、できるならやりたい仕事、いまは好きでなくても好きになれそうな仕事を選んで、一生懸命に自分の仕事を好きになったほうがいいと思う。表面的な待遇はそれほど重要じゃない。どうせ待遇なんて変わる。勝負はあと30年か40年続くのだ。自分の人生を長期的にどういう環境で仕事できるかのほうが大事だ。そして仕事の環境というのは与えられるものではなくつくるものだと思う。一番いい仕事人生とは、自分の力量と立場をみきわめ、どこまできちんと働かずに好きなことをやれるかというゲームにしてしまうことだと思う。そのためには時々はやっぱりちゃんと働いて結果を出す時期も必要だけれども、基本は仕事で自分が楽しいと思えることをやるのが一番充実した人生をおくれると思う。なんだかんだいって寝る以外の人生のほとんどの時間は仕事をしているのだ。


・ (選べないひとの場合)そもそも選べる選択肢がねえよ。バカ。


これは本当にそうだと思う。本当に難しい問題だ。学歴もなにか特別な資格ももってなくて就職できる先なんてほんとうに少ない。だれでも採用してくれる仕事というと、ほとんどノルマがきついか歩合制の営業職になる。販売するのも怪しい商品とかが多くて、飛び込み営業やリストを無差別に電話をかけていっては、迷惑がられたり怒られる毎日。普通の価値観をもっていたら、すぐに精神がおかしくなってしまうような仕事だ。それだったらフリーターやっているほうがましだとはきっと僕が同じ立場でも思うだろう。30歳とか40歳になってもフリーターやってられるわけないだろといわれても、他に方法がないのだからしょうがない。じゃあ、30歳になるまでフリーターしながら趣味の世界にひきこもって、そういう生活すら駄目になったら自殺するという人生のほうがまだ足掻く人生よりも幸せだという理屈に反論するのはぼくにはできない。有効な代案を思いつけない。
ひとつだけあるとしたらどんな趣味にひきこもるにせよ、ネットはやっておけということだ。これからの時代は世の中に存在するあらゆる世界はネットにつながる。ネットのノウハウをもっている人間は、当分の間は重宝される可能性が常にあるということだ。学歴も職歴もない人間の雇用を吸収できる最大の場所はやっぱりネット周辺だ。ネットであればひきこもる人間のすべては救われなくても一部は救われる可能性がある。たとえ遊んでいるだけのひとですら一部は救われるような時代になると僕は思う。


・ どういう勉強をしておくべきか。


若いときに勉強しておいたほうがよかったというひとは多い。だが、まあ、はっきりいって実際に勉強しなかったひとの後悔なんて、勉強しないと後悔したということの証明にはなっても、勉強してたらどうなっていたかについてはどこまで参考になるか疑問だ。ぼくは高校生の時、いままで一切自宅で勉強したことがなく、宿題も絶対に提出しなかったことが内心自慢だった。で、成績なんて勉強すればあがると思っていたのだが、高校3年の秋からはじめて受験勉強というものに着手し、半年間だけ死にものぐらいで勉強したところ、成績はびた1文あがらず、勉強する前の夏休みの模試でA判定だった大学以外は合格しなかった。最後の模試でも偏差値は半年前と1すら変わらなかったのだ。
思うにみんなが努力している分野での努力は非常に効率が悪い。競争がはげしすぎる。だれもやってないような分野での努力こそ希少性があって他人に評価されやすい。人間は分からないジャンルで能力を持つ人を高く評価してしまう傾向があるからだ。
だから、文系だったら数学やITを勉強すべきだし、理系だったら本を読むべきだ。経済学とか心理学の勉強もいい。でも、基本はやりたくない勉強なんてしないほうがいいのだ。どうせ身につかない。人生で勝負のネタにできる知識は中途半端な付け焼き刃ではなかなか通用しないものだ。興味があることがないときはどうすればいいか。そのときは環境を利用するしかない。バイトをしてバイトしている仕事のことを勉強するとか、好きな人や自分の友達が興味をもつことを覚えるか、そうでなくばネットの中とかであたらしい人間関係をつくりにいく。人間はつきあっている人間でどうなるかが決まる。自分の所属する人間関係と独立して成長するのは非常に困難なのだ。
ぼくはいま大学にもどったとしてもやはり大学の勉強はこれっぽちもやる気はない。前世と同じく劣等生で上等だ。ただ、興味あること、調べたいことはたくさんあるし、さらに見つけたいと思う。


・ 起業するにはどうすればいいか?


最後に起業という選択肢について考えてみたいと思う。ぼくなら絶対に学生あるいは卒業してすぐに起業しようなんておもわない。だってネタがないんだもの。起業は自己目的におこなってもいい結果なんてでるわけもなくまわりに迷惑をかけるだけだ。
起業はやるべきときがくれば自然と決断を迫られるものだと思う。自分から探しにいくものではない。
ただ、将来、起業するチャンスが欲しいなら、就職してやるべきは、なんかのプロジェクトマネージャーだったり新規事業の企画者だろう。こういうタイプの仕事は起業に必要なスキルをほぼすべて身につけられる大チャンスだ。それを会社のお金とリスクでできるのだから素晴らしいことこの上ないのだが、なぜか、そういう冒険をふつうのサラリーマンはかかわりたがらないというメリットがあるから二重に美味しい。こういう経験を踏んで起業するのと学生でいきなり起業するのとではビジネス自体のスケールが大きく変わってくる。起業するためにはいったん社畜になるのがおすすめだ。雇用される側の気持ちもわかるしね。


以上よくあるテーマについてぼくの考えを書いた。全体的に若い人をみて思うのはプライドの持ち方がバランスがよくないなということだ。若いと身の程知らずで高慢ちきであたりまえで、それの鼻をへしおるのは年取った人間のつとめだと思う。だが、なんか、すでにへしおられたのか小さくまとまっている人間が多いよね。ものわかりが良すぎて、ちょっと卑屈にも見える。それが変なところにプライドがある原因だと思う。小さな世界をつくって自分を守っているのだ。そういえばぼくの婚活を妨げているのもプライドだ。ぼくの中ではこの腹回りをすっきりさせないことに婚活を開始するわけにはいかないという切実なプライドがある。冷静に考えると別にそんなのは無視するか、どうしてもこだわるなら本気でダイエットをやりやがれという結論になるのだが、どうもそうもなかなかいかずに時間だけ過ぎていくというのが人生というものだ。前向きな努力に結びつかないプライドなんて捨てた方がいい。まあ、ということで話がずれたが、無理矢理、締めにはいることにする。


いまの若い人は会社のために働くということに価値観を見いだせないひとが多い。ということは、いまの世の中で希少価値が高いのは社畜だということだ。プライドをもった社畜としてプライベートも含めて仕事に捧げるという生き方が競争相手が少なくていいように思う。なまけるのはみんな頑張っているときがいいのだ。奴隷とちがって社畜はいやならいつでも辞めていい。もしくはサボる社畜になればいいだけなのだから。

潜在限界会員数についての補足

今回は事務的でつまらなそうなタイトルにしてみた。


前々回のエントリで紹介した潜在限界会員数についての補足である。補足なのでとくに一貫性のないいくつかの説明の羅列でしかない。


なので潜在限界会員数を月間入会者数と当月退会率と継月退会率で求めるという手法に興味あるひと以外は面白くないエントリなので関係ないひとはいますぐまわれ右をすることをお薦めする。


□ 潜在限界会員数の典型的な動きについて


会員数はいずれ潜在限界会員数に収束していくという話をしたが、実は潜在限界会員数は結構変化する。とくにサイトをつくってしばらくの間は次第に増加していく傾向がある。これは継月退会率は変化しないという前提が実はちょっと正しくないためだ。ひとつは最初の月の退会率がだんとうに多いのは間違いないのだが、2ヶ月目の退会率も1ヶ月目よりも低いが、3ヶ月目よりは高くなるからだ。また3ヶ月目以降の退化率も非アクティブ会員がどうしても増えていくので退会率は次第に下がっていく傾向をもつ。したがって継月退会率はサイトをつくって1年間はまず下がっていくので潜在限界会員数は増えていくことになる。
また、入会者数と退会率はサイトのプロモーションやサービスの充実により、とくにサイトをつくった初期は大きく変動する。いったんこれらの数値が安定しはじめると、数値を変化させることはとても難しくなるので、最初の数ヶ月は本当に大事だ。


□ 月間入会者数は本当に安定するか?


ブコメに累計の入会者数が増えていったらマーケットが飽和するので、月間入会者数は一定じゃなくだんだんと減るんじゃないかという疑問があった。残念ながら、実際は月間入会者数はだいたい一定になる。当初は伸びてすぐ飽和して大きく減少するような入会者数の推移をするのは単品のゲームなどのコンテンツとしての性質の強い、つまりひとつのコンテンツとして消費されやるいタイプのサイトの場合だ。サービス的なサイトの場合、たとえばゲームサイトでも毎月コンテンツが増えるミニゲームサイトなんかの場合は、入会者数や退会率はやはり一定値をとる。これはジャンル自体が飽きられるとか、プラットホームの普及台数が大きく落ち込むとか、超強力な競合サイトがあらわれるとか、そのサイトのファンダメンタルが変化しない限りは、一定の値になる。


□ 潜在限界会員数が伸びなくなったときとはどういう状態か?


サイトをしばらく運営しているとどうやっても月間入会者数、当月退会率、継月退会率のすべてが安定して変化しなくなる。つまりは潜在限界会員数も一定になる。従来通りのプロモーションやサイトの改良などの施策をいくらやってもあまり効果がなくなる。こういう状態をどう考えればいいかだが、ぼくはサイトがリーチ可能なユーザのすべてにほぼ知名度がゆきわたった状態であると思っている。つまりユーザ全員がこのサイトがどんなものなのか”知ってしまった”ということだ。どういうふうに知られてしまったかで、マーケット対象のユーザのどれぐらいの割合が会員になってくれるかが決まるわけだ。だから、会員ビジネスをやる場合は、顧客である会員の満足度だけじゃなく、いちどの顧客になったことのないユーザにどういうイメージを持ってもらうかというのが非常に重要だ。だから、認知を上げるためのプロモーションを安易にやってはいけない。下手に強力なプロモーションをつまらない中身でやってしまうと、未来の顧客を大きく失うことになる。サイトの将来性に自信はあるけど、今のサービスじゃまだそこまで到達していないような場合は、プロモーションをどこまで我慢するかというのは長期的な戦略では大切だ。ユーザ全員になんらかのイメージをもたれてしまった場合にそれを塗り替えるのはとても大変だ。それは要するにユーザの認識を相転移させるということだ。つまり、ユーザ全員にもういちど新しいイメージをすりこむということだ。そういうサイトを大ヒットさせる難易度は最初の白紙のユーザに新しいイメージが浸透させて大ヒットさせるよりも難しい。


□ プロモーションやサイトの改良により退会率への影響


プロモーションすると入会者は増えるが退会率も増大する可能性がある。なぜならプロモーションにより、退会するのを忘れていた既存ユーザが退会することを思い出してしまうからだ。なので非アクティブな会員がどのくらいいるかを把握することは大事だ。これらは新しいことをトライするときにみかけの上での障害になる。なにをやっても会員が減ってしまうのだ。まあ、でもそうして非アクティブ会員を減らすほうがぼくは健全だと思うのだが、中途半端にやるなら、なにもやらないほうがましというケースは古いサイトの場合に多い。


□ テレビCMの効用


テレビCMをうつと入会者も増えるし、退会者も上記の理由で増える。しかし、継月退会率は下がる効用がある。これはサイトの信用度が増すからだ。既存会員が自分の入会しているサイトのことを再評価するからだ。やればやるほど効果がでるものではないが、ある程度の会員数がすでにいる場合はけっこう重要なボーナスだ。


以上

テレビとネットの将来への疑問

ここ数年、会う人にテレビの将来とか、ネットメディアはどうなるかについてよく聞かれる。
正直、そういう話題には、ぼくは本当に興味がなくて、そのたびになぜ興味がないのか、ぼくは本当はなにがしたいのか、力説するのだが、なかなか信じてもらえないし、理解もされないのだ。


しかし、何度も他人に尋ねられるうちに、さすがに多少テレビの将来とかを考えるようになった。だからといって別に回答はなく、むしろ逆にどうなるのか僕がいろいろ知りたいことがある。あまりまとまっていないが、思いつくことを適当に書き記してみる。


最初の疑問。双方向性はどれぐらい必要とされているのか。


まず、テレビにyoutubeとかustreamとかの動画や生放送サービスがとって変わるかという、よくある質問についてだ。両者は違うものなので、youtubeustreamがテレビの役割をごく一部は担えても置き換えることはありえないと思っているというのがとりあえずのぼくの答えなのだが、もうすこし真面目に望まれていそうなこたえを探してみるのであれば、テレビがいまのかたちで生き残るかどうかは人間というものがどれくらい双方向性を求めているかで決まると思っている。


地デジにも双方向機能があるじゃないかという意見もあるかもしれない。まあ、でもそれが4色のボタンを指しているのであれば、まあ、あんなものじゃほとんど意味はもたないだろうと思っている。アクトビラのような+++はどうか?あれすらも中途半端だ。HTMLなどのWEB標準技術と互換性がないというのもひとつだが、もうひとつはやっぱりオープンなプラットホームではないのが致命的だ。IPhoneiPadの例があるから、もちろんそれに先だってiモードの成功例もあるが、いずれもある程度のオープン性が重要になる。そうなると電波は公共のものでどうこうという議論がはじまるだろうから、どうしても後手後手にならざるを得ず、双方向性の分野ではテレビの独自企画はWEB標準技術に市場競争で負けるだろうというのが結論になる。つまり、テレビで双方向の機能が望まれているのであれば、最終的にはPCよりの技術との互換性が重要になるだろう。


とはいえ双方向性を本当にすべての視聴者が必要としているのかには疑問の余地がある。そうなると結局テレビとネットは棲み分ける可能性もでてくる。いずれにしても視聴者が双方性をどれぐらい必要しているかがポイントだ。


第2の疑問は、テレビ放送って本当に電波が必要なのかということだ。


すでにIP網をつかったサイマル放送などはひかりTVなどで行われている。しかし、ユーザ数がすくないからそれはできることで、いまテレビを見ている人が、全員インターネット経由で放送を受信するには、膨大な回線とサーバが必要なので不可能だという話をよく聞く。


でも本当にそうだろうか?いまのインターネット網の帯域が将来的にはどこかのタイミングで完全にテレビ放送用の電波を置き換えることが可能になるんじゃないだろうか?そのロードマップを把握するのがテレビ側のひとにとっては大事なんじゃないかとぼくは思う。


どっちにしてもIP網でサイマル放送が一般的になっても一部のユーザしか当初は使わないだろうから、帯域もそれほどは必要とされないのではないだろうか、そう考えると思ったよりスムーズにIP網でテレビ放送を流すことがスタートできるような気もする。


テレビがIP網で流れるようになったとして次のポイントは、それはマルチキャスト技術を使うのかどうかだ。ぼくはマルチキャストはあんまり普及しないんじゃないかと思っている。それだと電波を使って放送するのとあまりサービス的には変わらないからだ。理由のひとつはマルチキャストだとタイムシフトに対応できないことと、双方性に制限がかかるからだ。マルチキャストをつかわなければ、別に過去の放送をみようが5分前の放送をみようが自由自在でローカルにビデオデッキも不要だし、ひとりひとりのユーザに同じ映像を見せる必要すらなくて、ユーザの属性や操作に応じてカスタマイズした映像を配信できるのだ。そういった視点でマルチキャスト技術をつかわずにどれだけのユーザにネットで配信可能なのか、日本や世界のインターネットの基幹インフラが今後どういう風に増強されていくのかのロードマップを把握することは大切に思う。ちょっとぼくも書いてて知りたくなってきた。


ぼくの疑問は以上の2点だ。このふたつとあとは米国での状況をウォッチしていればテレビの今後について見通しは立てられるのじゃないかと思うのだが、最初に書いたようにぼく自身は本当にあまり関心がない。

理系出身企画者がお金を獲得するためのビジネスプランの例

新しい企画を立ち上げるときに必要な投資を会社からひっぱりだすのは大変だ。上司はOKしても管理部門がいい顔をしないといろいろとめんどくさい。


そういうときに要求されるのがビジネスプランだ。バラ色の予想を書き殴った事業計画書を作文するとお金をかなりの確率で出してくれることに世の中ではなっている。


えっ?いくら事業計画をだしても通らない?あー、それは君の政治力が不足しているからだ。君の事業計画の中身もきっとクソだとは思うけど、それは企画が通らないこととはあまり関係ない。


世の中で通る企画とはどれだけ政治力のある人間が賛成するかで決まる。政治力とは社内的な立場の強さだったり、声の大きさだったり、ねちっこさだったり、だれと仲がいいかなんかで決まるパラメーターだ。企画の中身はどうせだれも判断できない。


とはいえ、だれも本当の一番大事なところは判断できない事業計画であっても形式的な審査はある。ようするに計画の上でも儲からない企画は、だいたいの会社はお金を出すのに反対するひとたちがいるというシステムになっているのだ。そこで今日はそういう場合に、理系出身の企画者がどうやってお金をひっぱりだすかの例を紹介する。


え?文系出身の企画者はどうすればいいかだって?そんなのは簡単だ。文系出身者は合理的だから、望む結果から逆算した事業計画をつくればいいだけだ。みんなが望む結果とは少なくとも3年後とか5年後には投資を回収して利益をじゃんじゃんだすような状態になることだ。そのために必要な売上を逆算して、そこに向かってぐいぐい右肩上がりで伸びていくグラフをつくればみんな納得してくれる。すぐに結果がばれてしまう最初の1年だけは現実的な数字をいれるのがこつだ。2年目から急上昇!これで間違いない。


問題は小心者の理系出身の企画者だ。彼らは気が小さいのでどうしてもウソがつけない。ちょっと背伸びをするぐらいのウソが関の山で、ハッタリをきかせられない。どうしてもなにか根拠のあることでないと自信をもって説明できない困ったちゃんなのだ。というわけで今回は参考のためにぼくが昔、着メロサイトをつくったときにどういう理屈でもって会社から金をひっぱったかを紹介しようと思う。


ケース1 机上の空論の段階でのお金のひっぱりかた


本当に儲かりそうなビジネスプランを見つけても他人がそう思うかどうかは別問題だ。ぼくは、その当時、携帯キャリアに着メロサイトをつくることを認めてもらえば必ず儲かるということを確信していた。さて、そういうときにどういう風なビジネスプランをつくって社内に説明すればいいだろうか。


まずは投資する金額を決めなければいけない。実は机上の空論の段階が一番投資するお金を会社から引き出すのが簡単だ。なぜ簡単かというとまだ机上の空論の段階ではあまりにも空論すぎるのでいくら投資するのが適切かの判断がまったくできない。いったんビジネスがはじまってしまうといくら儲かりそうかだいたいばれてしまうので、いったん儲かってない事業に追加投資をさせるのはとても大変な作業になる。だから、最初の段階でいくら予算を獲得するかはとても大事だ。ぼくは想定予算をその当時に会社がなんとか出せそうなぎりぎり最大限の金額に設定した。そして実際に使うときはけちけち使う。これが重要なポイントだ。最初の投資金額が多いと全体のプロジェクトが肥大化し、ますます採算がとりづらくなる。かといって必要な投資を必要なタイミングでできないのは自動的にプロジェクトが失敗するので最悪だ。予算は大きめで実際には使わないという姿勢が有効だ。次に目標売上の設定だ。ある分野に新規参入する場合どんな業界でも上位1社、よくて2,3社しか儲からないとぼくは思っているのでやる以上は最初からトップを狙うのが当然だが、そんなことをいっても信用度が下がるだけだから、ぼくは目標を業界15位ぐらいに設定した。15位ぐらいでも着メロビジネスは十分に儲かるのだということを力説した。本当に儲かると思っているなら、目標をみんながなっとくする最低レベルよりちょっと上ぐらいに抑えたほうがいいだろう。あまりにバラ色すぎるとそれだけでみんな信じなくなる。事業開始したあとの展開も目標が低いほうが自由度が高い。


ケース2 事業拡大時の追加投資の説明


サービス開始して予想以上に順調に会員が増大した。ようやく初期投資は回収できそうだ。でも、そんなときにダブルアップで勝負したくなるのがギャンブラーというものだ。着メロビジネスの場合はまだ月間の売上が1億5000万円のときに1億円ほどをかけてテレビCMを開始した。しかもうまくいったら毎月やると宣言してはじめた。売上から考えると明らかに過大投資だ。そのときにその合理性をみんなに説明するためにでっちあげたのが潜在限界会員数という考え方だ。潜在限界会員数とは、いまのままの勢いがつづくとやがて到達して増えも減りもしなくなる会員数だ。目先の現在の会員数のかわりに、この潜在限界会員数をもとに投資金額を決めてもかまわないとぼくは主張した。ちなみに、その後、競合会社から転職してきたある社員も同じ計算式を自分で発見していたようなので、わりと一般的に知られているモデルである可能性もある。潜在限界会員数は入会者と退会者が釣り合う会員数なので次の関係式が成り立つことから求められる。


月間入会者数 = 月間入会者数 * 当月退会率 + 潜在限界会員数 * 継月退会率


当月退会率とはその月に入会してひとがその月内に退会する割合だ。継月退会率とは前月までに入会していた会員、つまり前月の月末の会員数のうち、その月に退会したひとの割合になる。これは退会率が入会した月だけが異常に高くて、それをのぞいた毎月の退会率はほぼ同じであると近似してもかまわないという性質を利用している。そして当月退会率と継月退会率はサイトによって固有の値となって、大きくは変動しないという特徴がある。そして毎月の入会者数もまた大きくは変動しない。つまり、月間入会者数、当月退会率、継月退会率の3つがそのサイトの実力を現すもっとも重要な数値であり、その3つからそのサイトが最終的に落ち着く会員数の規模が計算できることになる。例として毎月の入会者数が120,000人で当月退会率が25%、継月退会率が10%のサイトの場合の潜在限界会員数は900,000人になる。いまの会員数は関係がなくて、いずれ90万人に近づく。であれば今90万人いて2.7億円の売上があると思ってお金をつかっても一時的なキャッシュフローさえ確保すれば問題ないというのがぼくの理屈だ。


ちなみにこの潜在限界会員数という考え方はとても便利だ。有料会員サイトの運営とは、目先の現在の会員数よりも、この潜在限界会員数を増やすゲームだと思ったほうがいい。広告などのプロモーションは入会者数をふやすが、退会率には直接の影響は与えない。また、サイトの更新頻度とかコンテンツの充実は入会者への影響は間接的だが、退会率は減らす作用がある。入会導線をわかりやすくするとライトユーザが増えて入会者は増えるが当月退会率は上昇する場合がある。などなど、マーケティング定量的に考える場合にとてもこのモデルは役に立つ。


ケース3 一見、不必要な投資の説明


とくに劇的に入会者を増やすわけでもなく、退会率が減るともとてもいえそうにない。でもやりたい。やらねばならないような気がなんかする。そんな企画をどうやって通すべきか。こういう場合はよりひどい無駄で効率の悪い支出と比較するのがいいだろう。たいていの場合それは広告費だ。CMというのは麻薬でやりはじめるとなかなかやめれなくなる。だいたい効果があるのは最初だけでだんだんと費用対効果が悪くなっていくのだが、そもそも費用対効果がよくわからないままおこなっているのが世の中の広告というものだ。そういうどれぐらい効果があるかわからないけど絶対に必要だと思われているものの費用は、売上の10%とかいうかんじで枠が設定されていることが多い。つまり予定されたプロモーションの費用として原価に組み込んでしまうのがいい。サービスのブランドイメージをつくるための必要支出だと定義して言い切ってしまうのがいい。管理部門というのはコントロールできない支出を非常に嫌がる。原価として割合がはっきりわかっているとコントロールされているかんじがすごくして安心だ。別に減らすのであれば年度ごとにそのパーセンテージを減らせばいいのだ。


まあ、でもこれはだれがなにをやるかが大事だよなー。ぼくもほかの社員がこういうのをやっていて自由にお金をつかいまくっていたら怒る気がする。でもそれは中身を判断できるひとのはなしで中身を最初から判断できないひとは比較的安心しやすいスキームだ。


以上、3つのケースを紹介した。書き終わって、あんまり理系文系関係なかった気もするが、気にしないでいただければ幸いだ。

空気で議論するネットのひとたち

メカAG氏のブログ記事が面白かった。


メカAG氏の指摘を誤読し、ソースを元に組み立てない議論なんてなんの意味があるのかみたいなコメントも多くあったが、そのとおり、確かに根拠をきちんと明示して論理的な議論を組み立てるためであれば、むしろソースはとても大事なのだが、ソースをコピペだけして、はい、論破。みたいなのは極端にしても、ソースと自分の主張と現実との因果関係をまともに説明できないのに議論しているつもりになっているひとばかりがネットに溢れている。


ネットでよく見る非論理的な論客を昔、twitterでこう評したことがある。


・ ゾンビ型論客 ・・・ 議論でいくら斬られても痛みを感じず、気づきもしない。

・ スケルトン型論客 ・・・ 議論で斬られたはずの論点が、時間がたつと再生する。

・ スライム型論客 ・・・ 斬ると議論が分裂する。


彼らは論理的な思考力がそもそも備わっていないので他人の理屈を理解できないし、そもそも他人の理屈を理解する気もない。相手の意見を理解した上で自分が考えた意見を述べるというよりは、相手の意見を外部からのいくつかの単純な刺激のパターンとし解釈し、決まったかたちで反応するどちらかというと知的生物というよりは昆虫とかに近い行動形態をとる。ネットイナゴとはよくいったものだ。


では、彼らはどういうパターンに反応して自らの行動を選択しているのだろうか?そして自分たちの機械的な反応を議論していると勘違いするのはなぜなのかを今回の記事では考察してみたい。


現実でもそうなので、あたりまえなのだが、ネットでは難しい理屈をこねまわせばこねまわすほど理解してくれるひとは減る。池田信夫氏のブログがいい例だ。いい記事でも中身が難しいとまったくブクマがついていない。簡単な理屈でないと多くのひとを納得させることは難しいのだ。ではネットで理解してもらえるために大切な簡単な理屈とはいったいなんだろうか?もちろん話の内容ではない。


・ 態度がいいか悪いか? ・・・ あるひとが書いたりしゃべったりしたことに、ネットの反応がどうなるかで一番大事なのは態度だ。いっている内容はあまり理解されないから、ぱっと見の態度がいいか悪いかがとても大切だ。それでそのひとを応援するか攻撃するかの基本方針が決まるといっても過言でもない。本当にいっている内容はあまり関係ない。いいひとそうか?そうでないか?生意気なのか?誠実そうなのか?ネットのひとたちはそれを第一に観察する。


・ どっちの意見が権威あるか? ・・・ ネットのひとたちの大多数はそのひとがいっている内容が正しいか間違っているかちょっと難しくなると判断できないので、だれがいった内容かということを重視する。中身は判断できないので、いったひとが専門家かどうか?もしくは専門家の意見と同じかどうかを重要視する。


・ 自分のもっている意見といっしょか反対か? ・・・ 多くのネットのひとたちはある意見について結論が最初から決まっている。原子炉は反対とか、韓国は嫌いとか、リア充は爆発する、とかだ。そうなると、まず、自分の意見と同じ側か、反対側かの分類だけをおこなってあとの細かい情報、相手が具体的になにを主張しているかなどは廃棄する。


まあ、簡単にいうと、上記のポイントの組み合わせで彼らはまず他人の意見に賛成するか反対するかを決めるということだ。次にそれからどう彼らが反応するかの典型的なパターンを列挙してみよう。


・ わら人形論法 ・・・ わら人形とは相手を殴るときに相手の肉体ではなく、わら人形をなぐれば相手をなぐったことになるという恐ろしい魔法だ。これはレッテル貼り+レッテルへの攻撃というコンボでおこなわれる。たとえば原子炉はなくすべきと主張しているとどういう根拠で主張しようが、反原子力発電派としてレッテルが貼られて、じゃあおまえは電気使うな、とかいう汎用的な攻撃が無条件にヒットする。


・ やつのいうことに騙されるな論法 ・・・ ネットの多くのひとは社会的な立場をある程度もっているひとは必ず自分が得になることしか発言しないという絶対法則があると信じている。この攻撃は強力だ。これはあるひとが発言するテーマが利害関係がある可能性があるというだけで、100%ヒットするというハメ技だ。ゲームバランスが崩れることこの上ない。ちなみに過去、何回かネット業界の体質について批判的なブログを書いたところ、おまえが言うなという正しい反応もあったが、それと同じぐらいにポジショントークだという断定コメントがたくさんついた。つまり発言する内容が客観的にみて自分を肯定しようが否定しようが関係なくて、自分の業界についての発言だから、裏の意図があるはずだから間違いという理屈のほうが優先されるらしい。・・・中身読めよ。


・ 目線談義 ・・・ 議論の内容にはついていけなくても比較的だれでも参加しやすい方法は、態度について批判することだ。まあ、ダイレクトに態度を批判すると悪口いっているだけみたいになるのだが、”国民目線じゃない”、とか”ユーザ目線じゃない”とかいうとぐっと議論っぽく見えるので多用される。ポジショントークと同じなのだが、どこが国民目線じゃないのか、なぜ国民目線じゃないと議論がおかしいのかまでをコンボで説明しないと意味がないはずなのだが、ネットの議論では単体でもなぜかあたり判定も大きくてダメージも発生する攻撃とされている。つかんだ瞬間にダメージ判定がある投げ技みたいだ。


・ 考え方が古い論法 ・・・ 自分で議論を組み立てられないひとたちはしばしば相手のいっていることの新しさと古さを問題にする。”その考え方は古いんだよね”、とかはよくある決めコメントだ。理屈に新しいも古いもなくて、正しいか間違っているかだけのはずなのだが、イメージだけで議論するひとたちは自分では理解できない議論をこうやって批判する。


・ アホというおまえこそアホやねん論法 ・・・ これは小学生の理屈なのだが、もうちょっとお化粧をして形を変えて、ネットの議論でもよく見られる。あなたのいっている批判は自分自身にもあてはまっている、とかいうとちょっとかっこいい。だが、議論をよく読むと本筋にはまったく関係のない指摘だったりするのだが、いいかたがかっこいいので、本来のダメージはゼロのはずなのだが、スタイリッシュボーナスがついてダメージを与えたことになる。


・ 世の中はバランス論法 ・・・ ”Aという意見とBという意見の中間に真実があるんですよ”ときいたふうなことをいうと、まるで航空支援のようにまず確実に当たり判定をくらう強力な攻撃。実際にはどうみてもAあるいはBだろうが、この意見を述べると賢者として認定されやすいので愚者が多用する。


・ 違和感談義 ・・・ 一時期、違和感がどうのこうのといういいまわしがネットで流行った。いまでも時々みられる。これは簡単にいうと議論の中身が理解できないひとが、よくわからないということを、”なにか違和感がある”といい変えることによって、相手にダメージを発生させられるというバグ技だ。類似のいいまわしに、わからないことがわかったような気になったということを、”ぼくの違和感をうまく説明してくれた”、とかいってHPを回復させるという荒技もある。


さて、どうしてネットの議論はこうもレベルが低くなってしまうのか。ひとつの理由はネットが議論の場としてフラットだということだ。フラットであるがゆえに多数派の程度の低い議論が数で影響力をもちすぎてしまうというのが一点だろう。フラットな議論の場というのは一般にはいいことと思われているが、悪い面もあるということだ。(←バランス論法)


もうひとつの理由は、おそらくネットで程度の低い議論をしているひとたちは、本当は頭がいいんじゃないか、学校とかでも成績がよかったひとたちだからなんじゃないか、ということだ。現在のつめこみ教育では、情報をたくさんインプットして暗記するということが優先される。暗記というのはようするに理屈で理解するのではなく、ある事柄をパターン認識でひもづけるという作業だ。現代で頭がいいとまわりからいわれて、自分でもそう思うひとたちというのは情報のパターン認識に能力が秀でているひとたちになるだろう。タイトルだけ見てコメントつけるひとが多いのもうなづける。少ない情報で中身をパターン認識しちゃったのだ。むしろ、おれ頭いい、ぐらいなものだろう。


もともとは、そういう頭のいいひとたちが自分は議論に参加できる能力があるはずと勘違いして大量発生しているのが、いまのネットの議論の場じゃないのかと思うのだ。

ネット原住民と日本の未来

前回のエントリでネット原住民というものが存在するという話をした。ネット原住民とはリアルの世界ではなくネットの世界を中心に住むことを決めたひとたちにぼくが勝手につけた呼び名だ。


ネット原住民というものはどういう性質をもっているか、今後、どうなっていくとぼくが予想しているかについて今回は書いてみたい。


ネット原住民とは基本的にはリアル社会から疎外されているひとたちである。リアル社会からネット社会にうつる理由はさまざまでリアルに居場所がないからというひともいれば、ネットのほうが純粋に楽しいからというひともいる。だが、やはりいまの日本はそれでもリアル社会の吸引力は強いから、主流は前者だろう。そういう意味でネット社会はある種のリアルで生きづらい人間のふきだまり的に集まったという側面をもっていて、ある種の連帯感は強いものの個別にはそれほど強固な人間関係で結ばれているわけではない。敵にまわすと恐ろしいが、味方にすると頼りないと例えられる彼らの習性はこのあたりに起因するとぼくは思う。


彼らはリアルな世界から見下されていると自覚はしているが、実は彼らは彼らで楽しくやっていたりして、それほど、リアルな世界にコンプレックスを持っているわけではない。むしろネット原住民のほうがある面ではリアルの住民たちを見下していることは注意しなければいけない。それは彼らがたまたまふきだまったネットという新天地が、人類のつくりだした楽園であって、そこに人類の未来もありそうだというのを彼らは分かっているからだ。そして彼らはそこでは先住民であり、オピニオンリーダーなのだ。だから、彼らはやっと手に入れた安息の場所であるネット世界をリアルな世界の人間に奪われるのには猛烈な反発をする。


このあたりのネット原住民の心性を説明するいいモデルを、つい今週に発見したので紹介する。それは風の谷のナウシカだ。人類が恐れ忌み嫌っている猛毒の腐海がネット社会の中心であり、そこに住んでいる蟲たちがネット原住民だ。人間が恐れ近づかない腐海だが、蟲たちは実に平和で幸せそうに暮らしている。彼らは決して人間の侵入を許さない。彼らに害なす人間か、むしろ人間でも味方なのか、それを判別する知能はあまりもっていない。とりあえず、まず怒る。すぐ怒る。そして王蟲のような先導者といっしょに暴走を開始するのだ。眼を真っ赤な警戒色に染めた蟲たちの暴走はもはや町を完全に滅ぼすか、自分たちが力尽きるまでやむことはないのだ。そしてそういう彼らの住む腐海の底には清浄なる大地、人類の未来が横たわっているのだ。


さて、そういうネット原住民は今後どうなっていくのだろうか?まずネットの社会への浸透にともない人数は増えることはあっても減ることはないとぼくは思う。ただし、ネット原住民のありかたはずいぶんと変化するんじゃないかと予想している。いまの主流のネット原住民はリアルとネットが融合する過渡期に存在する特殊なタイプじゃないかと思っているのだ。おそらくはネットとリアルの住民の混血が増えていくのだと思う。生物学的な意味においても現在主流のネット原住民は繁殖力に乏しく子孫を残しにくい。嫁や彼氏は二次元を好む傾向があるからだ。ただし、いまのネット原住民は生物学的な遺伝子は残さなくても文化的な遺伝子ミームはネット社会に大量に供給するだろう。ネット原住民はミームの媒体としての繁殖力は人類の中でも最強で、ネット文化の中心は間違いなく今後もネット原住民だ。


ネット原住民のことを理解するのは、ネットの未来を考えるためにはとても重要なのはあまり異論はないだろう。ぼくはそれだけではなく未来の日本の運命を決めるのもネット原住民の影響は非常に大きいと思っている。


いまの日本のおかれている状況を考えるに、いずれ数年以内に大変な危機が世界規模で訪れるのは、ほぼ間違いないと思う。そこで日本がどうなるか。そしておそらくだれもどうしていいかわからない事態になる。一挙に世代交代が起こるのはそういう大危機のときだろう。いまの若い世代が世の中を動かすようになったときに、世の中のことを真剣に考えているひとたちは、ほぼネットで情報発信をしている。そんな時代は、きっとネット世論が日本を動かす。そのときのネット世論の底辺がリアルな社会への憎悪で満たされているとしたら、とても悲しいことが起こるかもしれない。


そのときのネット原住民の暴走は下手をすると日本を破滅させる方向への原動力となる可能性があるのではないかとぼくは思っている。あるいは長い目でみれば日本はいったん破滅したほうがいいのが本当なのかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、そこから日本が這い上がるためにも、ネット世論に理性ある議論がされる場をつくることが、決定的に日本の未来にとって重要ではないかとそう思っているのだ。