おい、ゆとり、コンテンツの値段の決まり方をおしえてやる

ネット時代にコンテンツの価格はゼロになるのは複製コストがゼロなんだから、経済学的に正しく、著作権なんてみとめるのは社会的に損失だと主張しているひとは池田信夫氏を筆頭に多い。


そうするとコンテンツをお金かけてつくるプロはいなくなって、素人のコンテンツばかりになるんじゃないのと思うんだが、池田信夫氏なんかは、それで正しい、コンテンツ市場なんてなくなったほうが国民の福祉水準が向上すると本気で主張されているので始末に悪い。


市場競争によってコンテンツ価格が原価に収斂していくとするのであれば、コンテンツの原価とは複製コストだけではなくて制作コストも考えなくてはいけないだろう。コンテンツの場合は、いくら複製しようが制作コストは変化しないので、いささか逆説的ではあるがコンテンツの制作コストはコンテンツの市場規模によって決まる。つまりそこそこヒットするコンテンツがだいたい10万本売れるとして、1本あたりのマージンが1000円あるとすると、制作コストは1億円に近づき増えていく。


つまり、通常の価格決定の理屈とは逆だ。原価にあわせて価格が下がっていき利益が減るのではなく、価格にあわせて原価があがっていき利益が減るというプロセスをたどる。


なぜ、こうなるかは、コンテンツ制作者の立場になって考えればわかりやすいが、コンテンツというのは、価格を下げれば、ヒットするなんて単純なものではないからだ。面白いコンテンツには大量に売れた上にプレミアがつき、面白くないと判断されればワゴンでたたき売りされてもそれほどは売れない。だったらコンテンツの価値を高めるほうにお金をかけてヒットする確率をあげるほうが経済的にも合理性がある。しかも、もし下げた価格が標準になったら、次回以降のゲームでの獲得利益も減るのでコンテンツ市場全体が先細りする。なのでたまに失うものがなにもないプレイヤーが突然、低価格戦略をうってでたとしても主流のプレイヤーは簡単には追従しないので、成功しないことが多い。


同一コンテンツプラットホーム上ではコンテンツ間での価格競争はあまり起こりにくいとすると、じゃあ、コンテンツの価格はどうやって決まるのか。それはコンテンツプラットホームホルダーと消費者との間での相対取引で決まると考えればいい。いくらの価格だったら、どれぐらいのひとが買ってくるのかを、コンテンツプラットホームホルダーは見定めて、価格を設定する。そうしてそのプラットホーム上でのコンテンツの市場規模が決定される。その市場規模を十分な大きさにするのがプラットホームホルダーの役割であり、参入するコンテンツ屋さんへの最大の責任だ。


コンテンツ屋さんがビジネスを成立させるためには市場規模と、もうひとつ重要な要素がある。それはヒットをどの程度コントロールできるかだ。ヒットがコントロールできないと、コンテンツへ投資できる金額が増やせない。そのためにはヒットを狙って生み出せる資格のあるプレイヤーの数が制限されていることが重要だ。もし、コンテンツをつくるひとが今回つくったコンテンツの中身だけで勝負しなければいけないとすれば、参加する人数が多くなればなるほど、コンテンツの中身の差は小さくなり、どれがヒットするかはコンテンツの質より、偶然性など、他の要素に左右されるようになる。そうすると、必然的にコンテンツの質をあげて大作をつくるより、アイデア勝負のコストのかからない小ネタコンテンツをたくさん投稿するほうがましということになる。


これはもはやコンテンツ市場というよりも、ジャンプ放送局に似ている世界だ。主な報酬がお金ではなく名誉であるという点でも同じだ。


健全なコンテンツ市場はコンテンツの質で決まるべきであり、コンテンツの質とはコンテンツの総合力であるべきで、1分で考えたような小ネタを競うような場であってはいけない。コンテンツの質で競争するためには逆説的にきこえるかもしれないが、参加プレイヤーの数をなんらかの方法で絞る必要がある。もちろん参加プレイヤー自体は多い方がいいので、すそのが広いヒエラルキーをつくり、少数の上位に入るには過去のコンテンツの実績が反映されるというのが一番公平な仕組みだろう。また、参加プレイヤーがフラットな構造は、コンテンツプラットホームホルダーの力が強くなりすぎ、コンテンツ側が対抗できない。


さて、コンテンツの原価の話にもどる。コンテンツの原価は、コンテンツの制作コストとプロモーション費用にわけられる。なんでプロモーション費用が原価なんだと思うかもしれないが、むしろコンテンツの場合はコンテンツの制作コストもプロモーション費用だと考えた方が理解しやすい。実際にコンテンツ作りにこだわった(=お金をかけた)部分というのは隠しておくことなんてもったいないことはせず、これでもかというばかりに宣伝材料に使用されることが多い。


つまりコンテンツが、制作コストに、最低必要な金額以上に余分な費用をかけるのは、競争を勝ち抜き、たくさんの本数を販売するためだ。ヒットといえる一定本数以上の販売数を確保するために余分な費用を追加していいものをつくったり、あるいはプロモーション費用をかけたりするのだ。


じゃあコンテンツはお金をかければ必ずヒットして儲かるかというと、そんなに甘くはない。コンテンツの質のはなしをしているわけではない。投入した金額に見合った収入は得られるのかという話だ。ここが簡単に儲かるようだと、どんどん競合相手が増えて、どんどんお金をつかってどんどん儲かるということになる。そんなわけはないから、ふつうはヒットが確実なぐらいにお金をかけたらヒットしても赤字になるということだ。


そこでパブリッシャーだったりプロデューサなりが活躍する余地が生まれる。彼らの役割はお金のかからないプロモーション力を提供することだ。販売力だったり、ブランドだったり、メディアをもっていたり、メディアへの影響力をもっていたりする彼らは金銭的に効率的なプロモーションをおこなうことでコンテンツの原価をあまりあげないで製品をプロモーションすることができる。


上記のようなのがコンテンツ市場のだいたいの構造だ。


ふつうの製造業だとヒット商品はどんどんどんどんコスト削減していって利潤が増える。
コンテンツ業界はヒット作は、次回作ではコストが増えて、利潤が減ることも多い。


コンテンツというのは所詮はエンターテイメントであるから、あほなことにお金を使う方がコンテンツとしても楽しい。

コンテンツが無駄な方向にどんどん進化していくのは無駄に儲かったりすることが原動力になっている。


お金を稼げば稼ぐほど貯め込んでいく一般の産業界よりもコンテンツ業界にお金がまわる仕組みにしたほうが世の中が楽しくなると思うのは僕だけだろうか。