個人の才能とはいったいなにか

下のエントリを読んでいろいろと思うところがあったので書いてみる。


少数精鋭のテクノロジーベンチャーは企業が支払うべきコストをどこに付け替えるのか




このエントリには、別の二人の記事が引用されているので、そこを抜き出してみる。

* LingrRejawサービス終了のお知らせ:江島健太郎 / Kenn’s Clairvoyance - CNET Japan

しかし一方で思うのは、4人というのはやはり大所帯だったということです。アーキテクト・デザイナ・クライアントという専門には重複がなく、これにアーキテクチャとデザインの両方を見られるマネージャであるぼくを加えて4名なら、適正な少数精鋭と言えると思っていました。しかし、これは決して「少数」ではなかったのです。

自分が技術的に成長した今だから言えることですが、今のLingrRejawのようなプロダクトなら、1人か、多くても2人ぐらいで作れるべきであった、と思います。「少数精鋭」を突き詰めると、究極的には1人になるということでしょう。


さらに同じく米国でLUNARRを展開していた高須賀氏がLUNARRを清算し、その後のエントリーで以下のようなことを述べていました。

* 不確実性の高い新サービスの開発に - Toru Takasuka の起業・経営

そして、これから現れるだろうあるベンチャーは...

顧客数:1億人<

売上:1兆円<

利益率:50%<

設立年数:5年>

社員数:20人>

こんなエクセレント・カンパニが誕生するだろう。

悲しいかな日本からではなく。

また多くの日本人がマイクロソフトやグーグルに見た様に、次もただ羨ましがるだけなんだろう。


このふたりのいっていることは、いろいろといいたいことはあるのだが、ぼくが以前書いた次の2つのエントリをみていただければわかると思うので、ここでは省略する。


貧乏子沢山なWEBサービスという戦略

本当に世界的なwebサービスをつくりたいなら日本にいるべきと思う理由



さて、今回のエントリではふたりの間違った考えそのものよりも、ふたりがなんでこんな間違った考えをもつにいたったのかについて根本的なところから神の視点で議論していきたいと思う。


端的に申し上げると、ふたりとも


受験勉強のやりすぎ


である。


ふたりの学歴なり経歴は残念ながら知らない、また興味もないので、ググるのはカスなみなさまに任せるとして、ここでは彼ら二人が、高学歴かつ


受験戦争の不幸な被害者


という前提で話をすすめることにする。



彼ら二人の思考法の問題点を整理すると次の3つだ。


・ 解が存在するという前提で考えたがる
・ 局所的な現象を、普遍的な法則と考えたがる
・ 優秀な個人の才能はすべてを可能にすると信じている


以下、順番に説明していこう



解が存在するという前提で考えたがる


ふたりの主張をよくみてみると、これからのベンチャービジネスの理想は個人でやるべきであるという根拠は、小回りがきくという当たり前のこと以外では、「儲からないので大勢でやるとお金がなくなる」と「米国ではみんなそうしている」の2点しかないことに愕然とする。


ふたりとも米国でのWEBサービスがあまり流行らなかったというのと、お金をつかってしまったという、ふたつの確実な事実があるわけだが、だったら、正しい結論は、どうせこれからのWEBサービスなんて儲からないから、ひっそりと個人でやるべきであるというところまでだ。


個人でやらないとお金が足らなくなるからといって、個人でやれば成功するという理由にはならない。けれども成功する道は必ずあるはずだからとドラマの熱血主人公のように思い込んだとき、それは個人でやるという道の中に隠されているはずだという結論がでてしまうんだと思う。


でも、それって、解答が必ずある試験問題の解き方なんだよね。


現実世界は解答がないことなんてあたりまえだ。ぼくだったら、お金が足らないから、新しいwebサービスは個人でしかやれないという法則?を発見したときは、じゃあ、自分はお金をどっかからもってきて勝負すれば、相当、ライバルは減るよね、とか考える。お金使って、人使って、小回り効かす方法なんていくらでもあるし。


ふたりとも儲からないから個人でやるべきとかいいながら、最終的には大成功を夢見ているし、それができると仮定している。だったら、金使っても回収はできるはずだ。ここでもふたりの結論はロジカルじゃない。解があること前提の思考なのだ。でも、解があるかどうかの証明ができないから、確信がもてずに、賭け金をけちっているだけのはなしなのだ。



局所的な現象を、普遍的な法則と考えたがる


もうひとつの受験勉強の弊害が法則や公式をとにかく見つけて、計算を省略させたがる癖だ。


有効な公式を丸暗記して、問題にあてはめていくようなことに慣れているから、公式ぽいのをとにかく帰納的に見つけたがる。
公式がなぜ成り立つのかを深く考えずに、普遍的な法則だと断定したがる。


Facebookがほぼ学生ベンチャーから出発したからといって、今後はそういう方向が加速して20人で1兆円の利益がでる企業が生まれるとかいう寝言を予言してしまう。


世の中をとにかく法則で簡単に説明しようとする努力をするのはいいが、本当にそんなことができることをできるなんて勘違いはしてはいけない。世の中はある一面を切り口にすれば、簡単な理解をすることができることは多いけど、いつでもできるわけではないし、総体としては複雑だ。簡単な理解はかならずそれが成立する条件の限定とセットになる。「神は老獪にして…」だ。


Facebookの成功がなぜ過渡期の特異な現象ではないといいきれるのか。学生ベンチャーばっかりの競争になったとして、そこでの優劣を決める条件はいったいなにになると想像しているのか?


受験勉強に最適化された頭脳は、ひとつの公式の意味を深く考えるよりもたくさんの公式を覚えるほうが有利なので、そっちに進化してしまう。それがきちんと物事を考えて想像する力を奪う。



優秀な個人の才能はすべてを可能にすると信じている


このふたりに共通して感じることは、優秀な人間は、うまくやれるはずだという信念だ。ひとにぎりの優秀な人間が世界をまたにかけたビジネスをして、成功するという図式を信じている。


これは世の中を受験戦争になぞらえた考え方だ。努力と才能に比例した形で、全国一位とか世界一位とかのポジションがとれるはずという考え方だ。人間の能力だったり才能だったりすることが本当は何なのかをまったくわかっていない考え方だ。


ひとりの人間がほかの大勢よりも全然優秀だということは、どういう意味を持つのだろうか?


受験戦争というシステムの中で育った人間は、人間の優秀さを個人のもつ潜在的可能性の大きさになぞらえるのかもしれないが、事実は違う。


本来は人間の能力の個体差はあらゆる意味で大きくない。人間の能力差が大きく見えるとき、それは能力の差を大きく拡大するレバレッジがはたらいているだけだ。


受験戦争の場合、偏差値などの指標で無理矢理人間を序列化する。


本当はたいした差ではない人間に大きな差があるかのような測定方法を与えている。陸上競技しかり、野球、サッカー、しかり、特定の測定方法を提示して、人間の差を拡大表示して競わせる。


本来の人間の能力の差なんて、標準分布のグラフでもながめていれば、だいたい現実に存在できる範囲が限定されていることは容易に想像できるはずだ。


社会における競争においてもそうしたレバレッジが存在する。社会のあちこちにあるヒエラルキー構造がそうだし、資本主義というシステムもまたそうだ。


そうしたレバレッジは、特定の個人に他の人々よりもはるかに大きなパワーを与える。


つまり個人の才能、能力といった幻想は、そんなレバレッジとセットであり、レバレッジは個人ではなく社会に帰属する。個人の才能なんてそれを生かす社会のルールがなければゴミだ。


人間の能力差があらわれるのは社会がそうなるように仕組んでいるだけなのだ。


そして受験戦争では人間の能力的なものに比例したかのような結果を測定するルールをわざわざつくっているが、現実社会での競争はそんな公平な尺度で人間の能力を測定するルールは恣意的にだれかがつくらないかぎりありえない。


20人で1兆円儲かる会社があらわれるという妄想がばからしいのは、ゲームのルールをきめているひととゲームのルールの中でプレイしているひとがいるという基本的な事実を無視しているからだ。


資本主義というゲームのルールをきめているひとたちと関係のないところで、個人の才能(笑)によって、そんな企業が出現するとしたら、それはルールのバグが発見されたにひとしい。


大きなバグは速やかに修正されてあたりまえだ。修正されないためにはルールを決めている側に参加できるかどうかが鍵になる。


また、社会の中でゲームのルールをつくり維持するというのも大変な作業だ。


個人の才能だけで、大きなリターンを得ることを目指すという考え方は、社会のゲームの隠れたルールをうまいこと見つけて利用するということだ。その発想に社会には貢献するという考えかたはない。


個人の生き方としてはありでも、社会的には賞賛されるべきものではない。


まあ、そろそろてきとーな結論でこのエントリをまとめることにする。


勉強ばっかしないで外で遊べ


ということで。