ネットが守るべき言論の自由とはなにか?

ネットでわんこ☆そば氏なるひとのブログに面白い記事がのった。


ドワンゴ川上会長「中国のようにネット言論は国で規制すべし」 - SKiCCO JOURNAL


そこだけ読むと、多くのひとがこのひとは無茶苦茶いっているなと反感を持つような見出しである。ネットではこういうように自分が都合がいいように情報を切り出して加工して、架空の敵をつくって攻撃をするということがよく行われる。


ちなみに面白いことに、このブログをさらに引用したニュース記事があって、タイトルはこんな風になる。


『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言 - 楽天ソーシャルニュース


要するに読者を刺激する、できるだけ読者が怒り出すようなタイトルをがんばってつけようとしているのだ。そしてネット民はそういう情報を取捨選択かつ判断する賢さはあまりもっていないひとが多いから、そういう作られたイメージでどんどん空想の議論を発展させる結果となる。twitterの発言をいくつか引用してみよう。

manbo kono @jazzmanbo
またまた狂人現る。 RT @R_SocialNews 『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言 r10.to/hEtF8P

Kitten T.T.(脱原発に1票!) @kittenish823
ネット業界の当事者がネットの存在価値を否定する発言をしていることを赦す風潮は絶対にいけない。言論封殺を正当化する根拠はどこにもないのだ!→『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言

T-Katou @k10go244
中国、北朝鮮と同じでいいということか!? RT @R_SocialNews: 『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言

seiji watanabe @re_enta
激同⇒ネットサービス事業者からこういう発言が出てくることは実に恐ろしく、そして情けない。 RT ドワンゴ川上会長「中国のようにネット言論は国で規制すべし


彼らはこんなひどい人間が世の中にいるのかと頭の中で想像をふくらませて怒るわけだが、実際の相手が自分が想像するとおりの人間であるわけがないなんてことについては想像する知能を持ち合わせていない。


このようにネットでは相手の意見を自分が攻撃しやすいように加工したり、ねつ造して情報を拡散し、そのねじまがったイメージに対して、たくさんの人間で攻撃するというのが、とてもポピュラーで便利な議論の方法となっている。


ネットの言論の実態がどういうものかについての非常に美しいサンプルである。


さて、最初のわんこ☆そば氏のブログに話を戻そう。ネットの言論統制を国家がやるべきかどうか。言論統制の是非はともかくとして、国家がそういうことを志向するのは当然だと僕は思う。実際にジャスミン革命チュニジアではネット上の運動が燃え広がり、政府が転覆した。国家が国家である以上、国がひっくりかえるリスクに対してなんの対策もとろうとしないのは、間違っている。国としては革命などの社会不安につながる恐れのある暴走は食い止めようとするのが正しい姿だ。あくまで国のとるべき姿としては当然であって、正しい。だいたい今回の記事でもわかるようにネットの炎上事件というのは、原因をよくよく調べてみると勘違いだったり正しくないことも多くて、そんなんで社会がいちいち転覆してたらたまらない。


だから、国が言論統制をおこなおうと決意するのはそのこと自体は当然のことだとぼくは思う。そして、問題があるとすれば国家としては当然で必要性のある言論統制であっても、それによって本当の言論の自由が損なわれるのであれば、とても許しがたいということだ。そしてそういうことはぶっちゃけよく起こりそうでもある。だから、国家がネットの言論をコントロールしようとしたとしてもその手段についてはよくよく議論をしなければならないだろう。だからといってネットでなにがおこっても国家は一切干渉すべきではないというのはネットにいるひとたちは主張しても、国家側が自ら主張することではない。それはネットという新しい領土における国家の主権放棄であるというのがぼくの主張だ。重ねて言うが、それが正しいといっているわけではない。例えば、ネットはどの国家の主権も及ばない自由な場所であるべきだ、という主張もありうるし、そっちのほうが人類の未来のためには正しい道かもしれない。ただ、国家がそんなことを主張するのは自己否定だし、気持ち悪いじゃないか。


中国は手段が正しいかはおいといて少なくともネットの時代に国家はどうやってネットにおいても国民を支配するかということを真剣に考えている。それは国家としては正しいし、なんにもネットについて考えてないように見える日本よりは意識が高い。これは当然の指摘だと思うがどうだろうか?


国の話はこれで終わりにして、じゃあ、ネットの言論を規制するとしたら、なにを規制するべきかとぼくが考えているかについて書こう。


まず、最初に断っておくが、ぼくは規制手段について、こうすればいいという結論は持ち合わせていない。そこはこれからネットで考えていくべきテーマだと思う。


ただ、ネットの言論が問題な部分はどこなのか、それについての自分の意見は持っている。


それは「他人の言論の自由を妨害する自由は言論の自由とは違う」という主張だ。このふたつを混同しているひとがネットに多くいるのだ。


そういう意味では、ぼくは言論の自由を守られるべきだと強く思っている。そしてネットの言論の自由を本当に守るためには、ネットで他人の言論の自由を妨害する自由を規制しなければならないと思っているということだ。規制という言葉が気に入らなければ、ルールという言葉に置き換えてもいい。別にそのルールの主体がネットの自治でできるならそれにこしたことないし、なるべくなら国家権力の介入などないほうがいいに決まっている。


今回のわんこ☆そば氏の記事は非常にいいサンプルで、自分が攻撃したい相手を決めたら、そこだけ読むとみんなが怒るように相手の発言を切りとり加工してタイトルにつける。そうなると別のひとがさらにそのタイトルをより過激なものへ加工する。それをtwitterでみたひとがタイトルだけみてまたなにかを想像して怒り出す。そもそも発端が決めつけとレッテル貼りからはじまっているので、タイトルをクリックして記事を読むひとがいても、元々の記事からして根拠なく歪んだことしか書いてないから、元々のソースがなんなのかがもだんだんわからなくなってくる。


現在のネットの言論の自由はとても進んでいて、他人の言論まで自由にこのひとはこういうことをいったんだとねつ造することが可能なのだ。


わんこ☆そば氏が面白いことをいっている。

>マトモなことを言う人が吊るし上げられたとしたら、今度は吊るし上げた奴が非難されるのがネットである。それこそが自浄作用だ。


こういう自浄作用が本当にネットにあるだろうか?たまにあるのは認めよう。だが、多くの炎上事件でつるし上げられるのは”自分たちへの反対意見”であり、いっている内容は関係ない。敵か、味方かそれしか判断しない。まともな反対意見をいったとしたら、たしかに他のまともなひとたちは自浄作用により納得するかもしれない。ただ、それで浄化できるのはまともなひとだけなので、炎上事件の終盤になると、自浄作用により、逆に、ばっちすぎて浄化できない、まったく話の通じない馬鹿ばかりが濃縮されて残っているというのが現実ではないか。


こういうネット世論の特性というのはある意味単純なので、それを意図的に利用しようとするひとはたくさんでてきている。なにかの検索ワードに定期的にネガティブキャンペーンを投稿するボットはtwitterを眺めていればすぐに見つかる。自然発生なのかどこかが意図的にやっているのかは不明だが、組織的になにかの主張を広めようと、ネットでたくさんのひとがそう思っているかのようにいろいろな工作活動しているひとたちも多い。広めようという主張には正しいものもあれば、たんなるデマもあるだろう。だが、見ている限り、人間の善意よりは悪意のほうが数も多く長続きしているように思える。たいていの場合はなにかの主張を広めるときにはすごく悪い敵を勝手につくって想像上のイメージをどんどん悪くしていくという手段がセットになっている。そういうのは問題ではないのか?


だから、ネットの言論を規制すべきといっているわけではない。でも、他人の言論をねじまげる自由が、逆にネットの言論を不自由にさせているという事実を指摘したい。


最後に、わんこ☆そば氏の記事の最後のほうになにもかもぶちこわしにする本当にひどい文が登場して、ぼくは目を疑ったのだが紹介しよう。

>もちろん、表現の自由も行き過ぎれば暴力になる。だが、表現の自由は責任を課すことで制限すべきであって、


おいおい。結局、責任を課して制限すべきなのかよ?だったら一緒じゃん。


一体彼はだれとなにについて戦っていたのか?残念ながらこれが日本のネットでまだまともなことをいっているひとたちのレベルだ。


どうやらわんこ☆そば氏のブログを見る限り、彼はジャーナリストを気取っているらしい。ジャーナリストとして自分の発言には責任をもち、批判されることも覚悟しているらしいわんこ☆そば氏自身には果たして自浄作用があるのかどうか?期待して見守りたい。