母親の親友の話

母親の親友論には長い間だまされた。


ぼくは、正直、マザコンの気があって、母親の言葉にかなり影響されて育った。10代のときにいわれたいくつかの言葉はかなり長い間にわたって心の中の金科玉条となってぼくの人生を支配した。ぼくが独立したのは30代半ばのころだ。どうもおかしいと気づきだして母親に確認したらいったこと自体を忘れていて愕然としたことを覚えている。ぼくの人生を返して欲しい。


ぼくが心の拠り所にしていた母親の言葉を思いつくまま紹介してみよう。


(1) 親友とは大学時代までにしかできない。社会人になって以降の友達は利害関係の付き合いだから、親友にはならない。
(2) 商売するとき必要なものだからと全部の必要なものにお金をつかっていたら、すぐに商売が成り立たなくなる。本当に必要なのかを吟味しなさい。
(3) 本当に大事な人間関係とは相手が困ったときに自分の身を切ってでも助けるかどうかで決まる。普段いくら仲良くしていても関係ない。 
(4) 社会にでて生きていうことは、いうてもそんなにたいしたことあらへんけど、でも、なめたらあかん。
(5) あんたみたいな性格の悪い子は、だれも愛してくれない。


(2)と(4)は役に立ったと思う。(3)も、まあ、そのとおりだとは思うのだが、ぼくの場合はこの理屈を悪用してしまい、相手が困ったときは助けるんだと決意だけすれば普段の付き合いは適当にしてもいい、というように解釈した。おかげで年賀状は出さないし、普段の人間関係のメンテナンスもいいかげんなので、なかなか親しく付き合う人間ができないはめにおちいった。まったく母親はろくなことを教えない。


(5)が最悪だった。あまりにショックすぎてどういう時にいわれたかも忘れてしまい、ただ、その言葉だけが頭にこびりついて、だれにもいえずに十数年間自分の胸の中でかかえていたのだが、30歳を過ぎたあるとき、母親と一緒に旅行して、勇気を出して聞いてみたのだ。あのときのあれはどういう意味だったんだと・・・。そしたら、もちろんまったく覚えてなかった。どうせ、ろくでもないことをしたからでしょと、容疑も不明のまま、もういちど怒られるはめになった。これは実は(3)とのコンボでぼくの考え方にすごく影響を与えていて、自分はだれからも好かれないことはしょうがないとして、自分が好きなひと尊敬するひとは困ったときに助けようという、実にみっともない決意で自分の心をなんとか慰めるという癖がついたのだ。


(1)の悪影響も大きい。まあ、基本、他人の好意を信用しない人間だったこともあって、大学時代の友人も社会人になったら付き合いはまったくなくなり、会社や仕事で出会った人とは決してプライベートな付き合いはしないことに決めたから、友達がまったくいなくなった。仕事の関係では人間付き合いをしないということは徹底していて、接待も受けなかったし、やらなかった。仲良くなったひとと仕事をするということは、フェアじゃないし、汚らわしいことだと思っていたからだ。


でも、これも30代になったときになんかおかしいんじゃないかと思い始めた。だいたい大学のときの友達だって利害関係じゃないか?同じクラスだから仲良くするなんてことこそが強制的な利害関係以外のなにものではない。利害関係のない人間関係なんてそもそも存在するのか?そう思って母親に聞いてみたらこれも返事がすごかった。すこし考えたあといったのだ。


「確かに大学時代の友人も利害関係かもしれないね」


簡単に納得すんなーーー。


まあそういう母親なわけだから、ぼくと母親の価値観にはかなりの共通点がある。他人に対して、どんなに仲良く付き合っていても、相手が困ったときに自分が助ける決意をしていても、自分のほうは壁が心の奥底にあって、決して心を許していないのだ。母親のほうが全然社交的だし、友人も多いのだが、そこの部分は変わっていない。


ぼくが会社をつくったときに親から多額の金を借りたことがある。母親の貯金と父親の退職金だ。息子の事業にお金を出すと聞いたまわりから馬鹿にされたそうだ。


「いまにけつの毛まで抜かれるわ」


大阪は言葉が汚い。母親はこう言い返したという。


「親が子供の踏み台になってなにが悪いんですか。本望です」と。


会社をつくっていろいろ危機があったけれども逃げないで頑張れたのは、別に事業に夢があったわけでもなく、ぼくの心が強かったわけでもない。ただ、失敗したときに訪れるだろう両親の惨めな老後など見たくなかったからだ。


さて、親友は大学までにしかできないといっていた母親だが、自分自身は高卒で大学にはいけなかった。成績は良かったらしいが、母親の母親、つまりぼくから見ると祖母になるのだが、病気で伏せっていてつきっきりで看病しなければいけなかったからだ。だから大学にいけなかっただけなく、高校生活もろくに過ごせず、高校時代の友達で付き合いのあるひとはひとりもいない。


だいたい自分が学生時代の友達が残ってないのに、学生時代のときの親友しか本当の親友じゃないなんてことをいったのは根拠がなさすぎじゃないかと文句をいうと母親はイヤな顔をした。


そういう母親が去年のクリスマス前に高校の同窓会があるので大阪にいってくるといったので驚いた。


付き合いのある友達がいないというのにそんなところいったら気まずくないかと心配になったのだが、もう、母親も68である。ひさしぶりの同窓会らしく、おそらくこれで最後だろう。今は付き合いがなくても高校時代に仲が良かった親友もひとりいる。行けば会えるかもしれないから、というので、まあ、いったほうが後悔しないよねとぼくも思った。


数日後、母親と会ったらテンションが高かった。


「そう、聞いて欲しいんだけど、親友と会えたのよ」


しかも、親友も母親と会うために同窓会にきたのだという。まあ、それぐらいは社交辞令でもいうだろうとぼくは思ったけど、母親の喜びようは尋常じゃなかった。


母親はいっきょにまくしたてた。はじめて聞く話ばかりだった。


高校の時に住んでいた家は差別される場所にあったということ。小さいときは仲良かった友達もだんだん大きくにつれ減っていったこと。友達は仲良くても親がいい顔をしないので家にはあそびにきてくれないこと。病床の母親から、うちの家の先祖は鳥羽伏見の戦いの落人でサムライだ。サムライの娘だから誇りをもてといいきかされていたこと。そのなかで分け隔てなく家族ぐるみで仲良く付き合ってくれたのはその親友ひとりだけだったこと。


お互いずっと親友だと思っていたらしい。でも学校を卒業後、彼女はどこかに嫁いでそのとたんに連絡が途絶えたという。いくら電話をかけても手紙を書いても返事はこない。母親は、いつか、これはきっと彼女の意志ではなく、嫁いだ家が差別意識のある家だったから付き合えなくなったんだからしょうがないと、自分の中で整理をして諦めたそうだ。


その連絡がつかなかった親友が同窓会に来ていた。しかも母親と会うためにきたという。


ひさしぶりにあった彼女はほとんど身体を動かなかった。ずいぶんよくなったのだそうだ。結婚後、ひどいリューマチに襲われ、全身が麻痺して動けなくなった。電話機のボタンも押せない。ペンも持てない。ずっと寝たきりの生活をつづけていたという。最近、やっとリハビリがうまくいって腕が肩まであがるようになって少し動けるようになった。そして親友であるぼくの母に会ってひとこと謝りたい、それだけの思いで息子の嫁に頼んで同窓会につれてきてもらったのだという。


母親に高校時代に親友がいたという話は本当だったわけだ。


ほかの同級生のことを聞くと、母親は妙なことをいわれたといった。「きれいになった」とみんなにいわれたらしい。ひとりだけじゃなくみんなにいわれたそうだ。高校のときにしかあってない友達に70手前で再会して、きれいになったというのはどういう意味だよとぼくは笑った。


「たぶん、高校のときは毎日母親の看病をしていたから、疲れていたんじゃないかと思う」と母親はいった。


母親の高校生活とはいったいどんなものだったのだろう。


学生時代の友達しか親友じゃないとぼくにいったとき、母親はどんな気持ちだったのだろうか。おそらく母親の頭の中にあったのは親友の彼女のことだろう。彼女と連絡が途絶えたあとも、母親はずっと親友のままだと信じて、彼女にだけは心の壁を取り払って生きてきたのだ。


「本当に同窓会に行ってよかった」


母親はうれしそうにいった。