老人を牧畜する国

昔、ひとづてにある経営者がこう評したという話を聞いた。老人ホームや介護ビジネスは仕組みとしては牧畜業だ、と。


誤解を避けるために断っておくが、これは老人を馬鹿にしているわけでも、老人ホームの経営はこう考えろというビジネス指南でもなく、ただ、ビジネスの構造が牧畜業とまったく同じであるという指摘である。


牧畜業とは一定期間、家畜を飼育したコストを、最終的に市場で売却した価格を引いた金額が利益になるという構造である。そして市場価格はそのときの相場であって、だいたい一定であるとみなせるから、どれだけ利益がでるかは、飼育するコストをいかに抑えるかで決まることになる。


老人ホームや介護の場合も顧客満足度をいくらあげようがもらえる報酬が変わるわけではないのでいかに低コストで世話を出来るかで利益がきまる。牧畜業との違いは、飼育期間が決まってないことだ。だから、出来るだけ長生きしてもらうほうがいいというのが僅かな救いだ。


僕の母は10年前に介護2級の資格を取った。ボランティアで施設にいったときの話は何度も聞いた。施設に入ると痴呆が進むというのはあたりまえだと思ったという。入所すると全員がおしめをつけさせらそうだ。自分で用を足せる人間も例外なくだ。そして、全員、同じ時間におしめを変える。時間外に濡らしたから変えて欲しいというナースセンターへのコールでの訴えに、介護士は、ちょっと濡れたぐらいでおしめを変えたら介護保険の無駄遣いですと説教をしていた。そんな場所では正常な人間もプライドを守るためにはぼけるしかない。そうして人間の尊厳を破壊して痴呆で介護しやすい老人がつくられているのだ。


ボランティアの初日に、母親を新入りだと思って近づいてきた車いすの老婆がいたそうだ。お願いだから、あなたにいっさい迷惑をかけないから、わたしを公衆電話のところまで連れて行ってください、そう頼んできた。いったい、その施設でなにがおこっているのか?しかも、母親がいった施設は他よりはずいぶんと”まし”なところだと聞かされたそうだ。


昔、介護保険が導入された当時に、なんかでもらったベンチャー志望のひとを読むような雑誌の巻頭特集が、ある介護ベンチャーのインタビュー記事だった。8ページにもわたるそのロングインタビューでは、いかに介護ビジネスが将来性があって巨大な市場であり儲かるかの熱弁で埋められていて、介護という仕事の社会的意義のような話は1行もなかったことに戦慄したことを覚えている。もちろん介護の社会的意義なんていっていてもどうせ綺麗事だと鼻で笑っただろうが、そういう綺麗事すらまったくなかったのだ。そのとき、たとえ偽善であってもやっぱり建前としての正論はあるだけましだと、ちょっと価値観が変わった。それぐらいショックを受けた記事だった。


ぼくはベンチャーの仕事に関わっているが、起業家というものに親近感をもたないのはそのあたりの理由だ。そもそも起業家ってなんなんだ。一攫千金を狙って事業を起こすひと、という意味であれば、どんな仕事をやるかは儲かりさえすればなんでもいいのだろう。


介護の問題についてのネットの議論とかを見ると、結構、施設にいれてプロに任すしかないって結論になることが多くて悲しくなる。プロって何のプロなのか?これはメンヘラ、鬱病とかの議論でも同じだ。素人は手を出すべきじゃない、プロに任すべきだ、とかいってむしろ関わろうとするひとを非難したりする。いずれの場合もプロが問題を解決できるとは思えない。ただの責任転嫁、嫌なものはみたくない、それだけじゃないか、と思う。


こういう問題は”ふつうのひと”にとっては、結局は”ケガレ”なのだろう。そして自分の価値観を守るため、ケガレに近づく人間までも非難する。日本はそういう国だ。