物語を守るという生き方

ルールを守ることがどこまで必要なのかを高校時代に友達とよく議論した。


覚えているのは「交通信号をどこまで守るべきか?」というテーマについての議論だ。高校生なので、とうぜんながら歩行者の立場からの議論だ。


赤信号のときにクルマがきていない。そのときに横断歩道をわたることは人間として、どこまで許されるかというお題についていくつかの面白い立場がでてきた。


(1)ルールはルール派。どんなときであっても信号は守るべき。


(2)at your own risk派。大丈夫だと思ったら、自分の判断で渡っていい。ただし、それで事故にあっても警察に捕まっても自分の責任だ。それを自覚して信号無視するのであれば、人間の生き方としては許される。


(3)信号?なにそれ派。もっとも交通事故率の高い大阪ならではの考え方。赤信号であってもクルマがいなければ渡る。青信号であってもクルマがきてれば渡らない。そもそもクルマも歩行者も信号を守るなんて信じていない己の直感と反射神経のみに頼る考え方。


(4)啓蒙主義派。(2)に対する批判として提案された。自己責任で信号無視するのはいいとしても、小さい子とかがそれを真似したらどうすんだ。信号が青になったと勘違いして信号見ないで渡るひととかでてきたら責任をとれるのかという問いかけから生まれた。結論としては、だれもみてなければ(2)の考え方で自己責任で信号無視をしてもいいということになる(強い啓蒙主義)。もうすこし制限を緩くすべきで、自分で判断力のない子供がみてなくて、また、他の歩行者が信号が青になったと勘違いのしないような渡り方をするのであれば自己責任で信号無視をしてもいいという考え方(弱い啓蒙主義)もあった。


結局、僕らの間の議論では(4)が一番正しいんじゃないかという結論に落ち着いた。ちなみに僕はかなり少数の(1)の考え方であった。僕は小学生のころからボードゲーム好きだったし、そもそもごっこあそびが大好きだった。コンピュータゲームとちがって、そういうアナログなごっこ遊びはプレイヤーがルールを自主的に守らないとゲームは成立しない。ぼくはそのころから人生もゲームだと思っていたから、ごっこ遊びのルールとして信号を守らないのが許せなかったのだ。だが、結局、(4)を支持する友達に、だれも見てないしだれも迷惑をかけていない状況でもルールを守る必要性について、説得力のある理由を示せなかった記憶がある。


話は変わってうちの母親の話だ。うちの母親は若い頃は時代の先端をいくモダンな女性だったと主張しているのだが、とはいえやっぱり昔の考え方の人間だ。とにかく頑固で考え方を絶対に曲げない強固な価値観を持っている。


とくに僕が子供の頃から不満だったのは自然の素材についての徹底的なこだわりだ。洗濯は粉石けんだったし、食べ物に合成着色料や保存料、化学調味料がはいっていることを許さなかった。粉石けんだと洗濯してもあんまりいい匂いはしなかったし、みんなが食べているスナック菓子やインスタントラーメンなんかは絶対に食べさせてもらえずに友達が羨ましかった。とにかく添加物がはいっていそうな食品はすべて禁止なのだ。味噌やソーセージ・ハム・漬け物まで手作りだった。


僕がこの育て方に腹をたてたのは大学進学のために下宿したときだ。僕は好き嫌いがないはずなのに、なぜかコンビニ弁当やインスタントラーメンが食べられないことにきづいたのだ。どうやら僕は母親に化学的な添加物を受け付けないような体に改造されていたらしい。なんでここまで自分の勝手な価値観を子供に押しつけるんだと恨んだりもした。


僕の1歳下の妹は母親の性格を一番受け継いでいる。やっぱり頑固で意志が強い。生まれたときから腎臓が奇形で3つあった。それでずっと子供の頃から入退院を繰り返したこともあって、高校生の時から自分は医療の道に進んで恩返しをするんだと看護婦の道を目指した。


ところが、日本の病院には病人を治すのを助けるひとは健康なひとでなければならないというよくわからない原則があるらしく、体に奇形をもって生まれた妹は看護婦になれないことがわかった。


妹はじゃあ日本でダメなら海外で看護婦になると決意して、大学で英語の勉強をはじめた。気がついたら米国の学校に留学して看護婦の資格をとっていた。そのまま海外の病院で看護婦になり、米国人と結婚した。


どうやらうちの家の女性は自分の決めた道をどこまでもどこまでも貫き通す習性があるらしい。


そんな頑固な母親だが、実家にいるときはともかく、一人暮らしをはじめてからは一切自分の考えを子供に押しつけたりはしなかった。そういうところもきっちりしていたのである。


母親がなんで食品添加物とか合成洗剤とかを使わないことにこだわっていたのか、本当の理由を知ったのはつい去年のことだ。母親が友達と話している会話を隣できいていて初めてわかったのだ。


母親は妹の寿命をすこしでも延ばしたかったらしい。母親は医者から、どんなに長くても20歳まで僕の妹は生きられないと告げられていた。長く生きられないのはしょうがないとしても、妹の腎臓の負担をすこしでも軽くして1年でも長生きさせようと、必死で調べて、化学調味料や合成添加物をつかわない料理の方法を勉強したらしい。それ以外に妹にしてやれることがなかったという。


ぼくはそのときまでそんなことは全く知らなかった。なんで友達の家と同じものが食べれないんだと文句をいって母親をなじったときも、何度もあったが、一度も妹の病気のためだと弁解がましいことをいったりしなかった。子供にいうべきことじゃないと思っていたのだろう。昔の考え方の人間なのだ。僕は妹の病気がそこまで重いということすらもずっと知らなかった。


妹は結局20歳までに死んだりせずに今も元気だ。元気というかすっかり米国人の生活に馴染み、ファーストフードやポテトチップスをばりぼり食い、糞まずい日本食のレストランで日本だったら賞味期限きれてそうな味噌汁やタクアンを美味しそうに食べる人間に変わり果ててしまっている。そんなのを見ていると、はたして母親の過去の努力に意味があったかどうかもよくわからないなと思う。


だけれども、僕は過去の自然食にこだわる母親のことを馬鹿にしていた自分を恥じるし、母親の生き方は美しいと思う。物語として美しい。


人間というものはだれしも物語をもっているものだ。面白かったり、悲しかったり、感動させたり、恥ずかしかったり、せつなかったりする物語がひとつやふたつは必ずある。そういう物語を自分の中に見つけて大切に守っていく人生を送りたいなと思う。別に賢いひとらしく賢いことをやる人生なんて望まない。


物語として素晴らしければそれでいい、たとえ観客が自分一人でもそれでいいと思うのだ。