新年ということで「悟り」について考えてみた

正月三が日も終わった。


年末年始に書きかけのブログを完成させようと何度かこころみたが、数えてみたら22本も途中で投げ出しているエントリがあった。どれもこれもそのとき書いていたら、面白かっただろうなと手前味噌ながらも思うのだが、なにしろ、今の自分と過去の自分は、ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、と鴨長明も指摘するとおりに別人だ。


やっぱ、思い立ったときにブログは完成させないとだめだねえ。なまものだねえ。


というわけで、今朝、ベッドの中で考えていたことを書き留めることにする。


悟りとはいったいなんだろうかということだ。


信頼性の低いwikipediaの記述によると釈迦が悟りを開いたのは35歳だという。


人間なんて大差ないというのがぼくの信念である。当時の釈迦よりも年長組の僕は、すでに悟りを開いているはずだ。いったい、ぼくがこれまでにした経験のどれが悟りに相当するのだろう?


ひとつの予想としては悟りとは理屈ではないだろうということだ。完全に論理的な理屈であれば、書物となって残っているはずだ。もちろん論理的な部分はあるのだろうが、メインとなるのはなにかの心の状態であろうと僕は思う。


どういう心の状態なのか、可能性としては次の3つが有力ではないか。結論からいうと、おそらくは3つとも関係しているのではないかと思っている。


・ 無常観
・ 全能感
・ 刹那主義


インテリというのは大体いつの時代でも肝心なときには役に立たないくせに、普段は不毛なことをずっと考えつづけるものだ。しかし、インテリではなくても自我に目覚めた人間は、生きる意味とはなにか、みたいな生きるためにはどうでもいいことに思い悩む時期が人生に一度はある。


まあ、でも、しばらく麻疹のような時期がすぎるとそんなくだらないことを考えるのはやめて、日常の生活に埋没していくのが大人というものだ。しかし、症状が重い人間は麻疹の時期が過ぎても完全には治らず、ちょうど質量が重すぎる太陽が燃え尽きるときに超新星爆発を起こしてブラックホールが残るように、なにか重いもやもやした感情が残る。


それが無常観だ。まあ、冷静に考えて、人の人生になにか隠された重大な意味があるわけもなく、神もいなければ仏もいない。死んだら終わりだということにいつか気づくのはあたりまえだ。真理への問いの行き着く先に無常観はある。


では、これが悟りだろうか。だとするとハードルが少し低すぎる。無常観なんて、だいたい思春期というか第2反抗期に経験するものだ。


おそらく無常観は悟りの条件のひとつではあるがすべてではない。


だいたい、おれは悟りを開いたとまわりに吹聴して回る神経と無常観とはちょっと相反するものがある。なんでそこまでポジティブになれるのだろうか。


そこで登場するのが全能感だ。おれは全てを理解した。いま、おれはまわりの誰よりも賢い。そう思ってしまう瞬間は人間誰しも経験あるはずだ。いまならなんでもできそうな気がする。悟りを開いたと偉そうなことを公言する勇気をもつにはおそらくなんらかの全能感を持っている状態でないと説明が難しいと思う。


つまり悟りとは無常観と全能感を併せ持っている心の状態であるというのがぼくの推測だ。


ところが前述のように無常観と全能感はわりと相反する感情に見える。仏教ではだいたい全ての煩悩を捨てよといっているように思えるが、自分は悟ったと思い込むことこそまさに煩悩ではないのか。


このあたりの溝を埋めるのが刹那主義ではないかとぼくは考える。


刹那主義とは無常観のあとに必然的にでてくる考え方で、生きる意味なんて別にないのなら、いま、この瞬間を楽しく生きればいいんじゃないかという考え方だ。しばしば刹那主義は快楽至上主義と同義になる。


ますます悟りなんていう高級そうな考え方にそぐわない方向へいっているように思うが、そうではない。人間本来の自然な感情には忠実になれというのは十分に立派な思想だし、文学やドラマでも頻繁に用いられるテーマだ。刹那主義が堕落した快楽主義に陥らずに、もうちょっと高級感を醸し出すためのポイントとはなんだろうか。


それは刹那や快楽を感じる主体をどこに置くのかという問題に帰着するのだろう。別のいいかたをすると自己認識の範囲を自分以外にも広げることができるかどうかということだ。刹那を感じる自分、快楽を感じる自分、その自分の範囲を自分以外にどこまで拡大できるのかと言うことだ。


一昨日、ニュートンの最新号を読んでいたのだが、そこでは相変わらず宇宙の大きさとかを論じていた。最新の宇宙の歴史は137億年だそうだ。だから、光は137億光年先のものまでが届いている。では、137億光年はての向こうにはなにがあるのだろうか?なにもないのか、それとも宇宙が続いているのか?いまの科学では明確な答えはないが、おそらくは無限に広がっているか、137億光年よりは十分におおきいであろうと記事は結論づけていた。


たとえばこの宇宙の大きさまで自分を拡大することは可能だろうか?ぼくはちょっと宇宙に感情移入が可能かどうか想像してみたが、無理だった。ビッグバンで始まり、いずれ、ビッグクランチで終わるのか、それとも熱力学的な死を迎えるのか、はたまた再度のビッグバンが起こるのか、まったく想像力が及ばないが、とりあえずぼく自身は宇宙の運命にはまったく関係ないということだけは確信できる。しょうがないから太陽系まで大幅に想像を狭めてみる。やがて赤色巨星化した太陽に飲み込まれる地球の運命に思いをはせて、なんとか食い止める方法はないかと考えたりしたものの、やはりぼく自身の運命との無関係さはいかんともしがたい。


結局、実感をもって、自身自身だと思い込める範囲というのは、通常は家族ぐらいまでではないかと思う。それを民族だったり国民だったり人間だったり、あるいは自然も含めてだったり、どこまで拡大していけるか。その拡大された自己認識の中でなおかつ無常観にもとづいて刹那主義を貫いた状態。これが悟りなんじゃないかと思う。


刹那主義とはすなわち己の欲望も含めた全面的な自己肯定である。そこでの自己が範囲を広げた自己であるなら、すなわちそこでの現実を受け入れることができる。


悟りとはそういったものじゃないかと、今朝、ずっとベッドの中で考えていたのだ。なぜ、ずっと考えていたのか?


寒くてベッドから出たくなかったからに決まっている。